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目に見えない迷路の中を、迷うのではなく、正確に辿っていると、不思議と自由を感じる。Library - original jazz band official site |
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日記 2015.1.27
「夢:1/26」
ある男から、説明を受けている。 何かのインストラクション。 男は目が細く、髪が薄く、ポマードでオールバックにしていて、くたびれたタキシードを来ている。 説明はとても分かりやすく、馴染みがある。
2015.1.22
「夢:1/22」
戦争が起きている。 平原の中にある街を、ドライブしている(恐らく日本)。 左手の方角から、味方がICBMの様なミサイルを発射する。 低空でほぼ水平に飛行し、地平線の向こう側へ消えて行く。 しばらくすると、地平線の彼方で爆発が起き、右手の空が白くなる。 爆発が治まると、今度は右手の方角から、同じ様なミサイルが飛んで来て、左手の地平線を越えて行く。 同じ様に、左手の空が白くなる。 自分は真直ぐに運転しているつもりが、斜め右にそれてしまい、飛行場の滑走路の様な所に入ってしまう。 右手の上空を見上げると、100mはありそうな、ウォッカの空き瓶(vodkaと表面にちゃんと書いてある)のUFOが浮かんでいる。 車を止めて、連れと、見を低くして隠れようとするが、一旦開けた左側のドア(左ハンドル?)が閉まらず、自分の足が車外に出たままになる。 左手の上空を見ると、vodkaとは別の、真っ赤な発光球体が浮かんでいる。 (この姿勢のままでは)あのUFOに見つかってしまう、と思う。
2015.1.19
「蛯子健太郎の弱点・あまり好きでない物」
ー壁;特にコンサートホールの壁、美術館の壁、何となく乱暴だから(ピンク・フロイドのは除く)
ーランク付け;他人に対して、自分に対して、何となく乱暴だから
ー政治的に用いられるゲージュツ;音楽/アートで街を浄化、、、みたいなやつ、何となく乱暴だから
ーーーー (以上はあまり好きでない物であると同時に、弱点でもあります。つまり、自分の中にも、そっくりそのまま、諸要素が在り、、葛藤が存在します) ーーーー
「逆に好きな物」
ー人
ーーーーー (これも同時に、弱点でもあります、つまり、ちっとも立派な事ではありませんが、努力と限界を伴う、という事が多々あります。ただ、自分はやはり、好きでありたい、と思いますし、それが、ほぼ唯一の、嫌いな物に対する、希望だと思っています) ーーーー
2015.1.6
「夢:1/6」
家の前で何かの作業をしている。 家の裏側では奥さんが、やはり庭仕事の様な作業をしている。 玄関の前に、長方形の皿があり、ローストしたアーモンドが盛られているが、その内の数個は、手のひらサイズの巨大な物。 表面には毛穴の様な物があり、ローストされて、その部分が黒く焦げて、斑点の様になっている。 かじってみると意外に美味しい。 内部には空洞があり、カブトムシや蝉の幼虫などが、溝に沿って、向かって左手から、一列に並んでいる。 更に空洞の右側からは、森に居そうな、節々や身体の各部が、球の繋がりで出来た様な、飴色の、大きな蚊?が、飛び立って、陽の光の中、地面に降り立つ。 気付くと、次々と、森の、小さな虫達が、身の回りに飛び出して、囲まれている。 下に目をやると、長さ3cm位の、身体と四肢が葉脈の様に細い、四つ足のライオンの様な虫?が、目鼻の無い、完全に円盤状の頭部と、それを縁取る、燃える様な綿毛を、降り注ぐ陽光の中、ゆっくりと、頸を回しているのを見て、感動し、家の裏側にいる、奥さんを呼ぼうとするが、声が出ない。
2015.1.1
「夢:1/1」
猫の橙(だい)ちゃんを、寝ながら抱っこしている。すると、いつしか、等身大の自分自身に変わっている。自分は自分と抱き合う。すると、二人の身体が融合し始め、自分が自分に、収斂され、一つになる。
2014.12.30
「夢:12/30」
大きな家にいる。庭も広大で公園の様。各部屋も広々としていて、とても大きな窓が床から伸びている。 家は長く、繫がっていて、奥の方に行くと、裏庭に面した大きな部屋に大きな窓。庭には大きな池や岩が見え、向こうは丘があり、その上には道路と住宅地? 別の部分にある部屋から外を見ると、一カ所に固まって、色とりどりの花が植わっているのが見える。 家は木造の洋館で、窓枠も窓も程良く使用感がある。窓は少し、光を屈折させる程度に歪みがある。
2014.12.24
「ありがたい音楽について」
最近、久しぶりにエリオット・スミスの音楽が沁みる精神状態になりました。エリオット・スミス、ありがたや〜。これがビリー・ジョエルまで来ると、かなりな赤信号ですが、幸い過去25年以上それは回避出来てます。
思うに、音楽って、「ありがたがって」聴くというものです。これって、実は音楽に限らないですね。詩でも、小説でも、絵画でも、朗読でも、映画でも、基本(基本です)「ありがたがって」接する、そういうものだと思います。
更には、他人の話に耳を傾ける時だって、それが基本にあるかないか、とても大きな違いが出てくるのではないでしょうか?
更には、ご飯を食べる時だって、「いただきます」って言う時にそれで、どれだけ自身の何か、を大切にしているのか、、怒りながら「いただきます」って言う人ってあまりいないですよね(毎回そういう人がいたらそれはコメディとして観てみたいですけどw)。
こんな事に思いを寄せるのも、昨日の新聞の一面に、音楽作品の「ハイレゾダウンロード販売」が音楽ビジネスを活性化する可能性、が大きく掲載されていたからで、録音された音楽は無料、が常識となってしまった現在、の市場にライブの様な臨場感をもたらし、起爆剤としての効果を期待、というものでした。
僕はそんな事では、無い、とはっきり思います。現実は、売り言葉に買い言葉、それで「一定以上のお金が動く事」を目標にしている、のだとすれば、業界全体で「ハイレゾ」を煽れば、それは達成出来ると思います(その一環としての新聞記事かもしれません)。それに、音が良いのは、全然悪い事ではないですよね。
だけど、僕が感じてる、本当の、目標は「一定以上のお金が動く事」では無く、データとして、なんの躊躇いも無く、ダウンロードされ、何の躊躇いも無く、消去されて行く、あるいは、膨大なデータでしかなくなってしまった、音楽、を、「他人の、生きた生身の人間の、話を聴く様に、その基本として、ありがたがる」という、もっとずっと地道なものです。
なにも嫌いな音楽まで、好きになる、という事ではありません。嫌いなものは嫌いなのは、当然なことです。僕に異常に思えるのは、そういう普通の事ではなくって、好きなものも、嫌いなものも、「ひっくるめて、以前よりも祖末に扱う」という感覚です。
例えば、嫌い、は立派な感情です、だけど、嫌いな物を「できるだけ早いスピードで消去」したがる(さらに卑しめる)雰囲気は、とてもヒステリックで、異常だと思います。
データプロセスのスピードや、利便性に煽られて、そんな事を、あらゆる分野で、やっていたら、「たかがデータ」と言っているその対象そのものが「たかが自分」と同じだという落とし穴に、気付かないとしたら、「命」はどんどん「物ですらない、経済効果のみで測られる、商品」に近付いて行くのではないか、と、そして、何となく、現在は、それが、もう開き直って、「良い商品」が「短期間の神」なのは、「当たり前じゃん」と言って、肩で風を切って歩いている、どこか、ある「流れ」に呑み込まれた、荒っぽい、機械人間の世界が来ているのかも知れません。
データプロセス、はそれ自体、立ち止まって考えるべき、中毒性があるのではないでしょうか?
音楽ビジネスも、いままで在った規模を、再構築しようとしなくても、「人」という「生物」を考えた場合、徐々に優先順位をシフトしていくべきなのかもしれません。
それに、音楽は、聴きたい時に聴けば良いのであって、それが出来るからと言って、いつも浴びる様に、聴く必用もありませんよね。
自分では、「コミュニケーション」という事が、キーワードとなって来ています。
全て、自分と、どこか共通点のある感覚、の話です。
2014.12.19
「軟着陸」
結局のところ、我々は、おしなべて、早く速く進む事には馴染みがあるけれど、ゆっくりと進む事に関しては、全く慣れていない、アマチュアなのではないか?と思われます。
だから、いざ、ゆっくりと進むべき状態に入ると、人は鬱傾向になるのかもしれません。
もう一月も経ちますが、前回11月28日の「ライブラリ」のライブ以来、自分の中の何かが、ゆっくりと高度を下げつつ、軟着陸体制に入ろうとしている様です。
この、社会的な意識のスピードと、「軟着陸」しようとしている何か(たましい?)の速度の違いの激しい事!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
「!」の数が乖離の目盛りです。
実はこれ、自分は自分なりの形で、不器用に、苦しみつつも、自覚(しようと)していますが、身の周りの人達に、目を向けると、表面の見た目よりも、ずっと深刻な問題なのかもしれません。
そうなってみないと分からないものです。
ゆっくり進む事を、頭ごなしに、粗雑に、軽視して、ゆっくりな何かに「超高速」で対処することばかり、我々は、やってきたのかもしれませんね。
普段、この日記では、あまり我々、という主語は使わないのですが、今回は何故かそうなりました。
結局「物語り自身のスピードで、物語りを読む」という、速度、は、遥かに、意識の想定外まで、繫がっている様に、感じるのです。
2014.12.18
「横浜球場」
横浜に居る。ドームの周囲を回る。或は、それは球場なのかも知れない。 疲れたのだ、「疲れた」と声に出して言う。休みたい、と思う。 悲しく、自分が哀れで、涙が滲む。 ドーム型の心臓は今では単なる横浜球場になってしまった。 「そういう事か」と口に出して言う、「全てを手放し、全てを諦めるという事は、そういう事か」と口に出して言う。 球場の下に、地下に向かう階段がある。 「そういう事か」と、再び、口に出して言う。 小さな、埃を被った、手摺のついた階段が、少し急な角度で、暗闇に降りている。 手摺もステップも緑色に塗られている。 白い砂埃が積もっていて、手が汚れる。 真上に立って見下ろすと、角度が急なのがより分かる、縦穴の様だ、梯子程ではないけど、それに近い、後ろ向きに降りる程ではない、普通にゆっくりと降りて行く。
2014.12.15
「夢/物語りの時間」
夢12/15: 軍の施設にいる。昔の米軍みたい。 組織内で反乱が起きたのか、階下から反乱の首謀者の将軍が、兵士を引き連れて昇って来る(竜の記憶)。 彼はある秘密を知っている。自分はいつの間にか、元帥になっている。 自分は彼等の目的の様だ。上の階の廊下で、追いつめられてしまう。 元帥である自分は、時間を戻す鍵を持っている、という事らしい。 自分は彼等に「私が、時間を戻す鍵そのもので、私自身の舌が、鍵になっている。それを切り落として、私の口の中が鍵穴なので、そこに差し込むと、時間を操る事が出来る」と、秘密をしゃべってしまう。 そして、舌を切られては大変なので、階下へと逃げ、中庭に出る。
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感想: 「物語り自身のスピードで、物語りを読む事の面白さ」と言う、意識(気付き)自体が、「実際」には「物語り自身のスピードよりも、何倍も速い速度で、物語りを読もうとしている(そうとは知らずに)」という状態に無自覚にさせていたのかもしれない。 意識、言葉、「こうすればいい」といった、諸々、は「時間の流れ」からは異質な、固定された、ものであり続ける。それは、生を切り離し、死を勘定に入れない事で、何かを固定し、多くの場合は、実際の生活に役立てる。 時間の流れ、物語り自身の速度、とは違う。 それに対する、警鐘の様にも思える。
2014.12.8
「先日のライブラリ@茶会記 11/28(金)を終えて・受容について」
もう既に日数が経っているし、批評家の福島恵一さんが、当日の晩に(鉄の熱い内に)詳細なレヴューを書いて下さり、本質に外側からブレない光を当てて下さっているので、自分からは何も言う事は無いか、と思っていたのですが、「この日記」を書こうと思うと、ライブラリは、あまりにも自分の日常に、接ぎ木され、或は「エイリアン」の幼生(チェストバスター)の様に寄生されているので、触れないわけにはいかないのだ、と思いました。
音楽の内容を語るのではなく、宣伝のつもりも無く、美化するつもりも、大きく見せるつもりも本意の逆、という事で、自分は今年2月のライブ以来の9ヶ月をこのライブの為に生きて来た部分が在ります。
「自分が変わらなければ」という思いが非常に強く、かといって何が、どのように、というのは(当然ですが)、日々生きて行くことによって、その日毎に景色が変わって行く以外には、全く分かりませんでした。別の言い方をすれば、それが「やりたかった事」なのです。
そのプロセスを意識的に過ごし始めた当初は、ライブをする事自体、視野に入れてませんでした。バンド、ライブラリ、という括りも、それが自然の流れであれば、犠牲にする、という選択肢もありました。ただ、毎日生きて、自分の命、たましいを確認する。それ以外には何一つアプリオリには進めまい、という必用が精神的にありました。
それが5ヶ月経って、7月頃に、自分の内部で、ふっと「ライブをしよう」という流れに変わって来ました。ただそれは、自然の放物線を描く様に、7月や8月にすぐライブ、というのではなく、それから4ヶ月後の11月28日に決まったのです。リーダーとして、そういう流れ、を無視するのはとてもよくない事だったでしょう。
別の言い方をすれば、たったの9ヶ月間とも言えます、では、その間に、自分の何が、どう変わったのか、今振り返ってみると、「受容」という事だと思います。ほんの僅かに(ほんの僅かです)、様々なことが、以前に比べると、受け入れられる様になり、その僅かな変化を、音にすることができました。悪怯れるつもりはありません。その様に、楽屋でも、ステージでも、感じられ、それ以外、別の言い方は出来ないのだと、思いました。
こうして書いてみて、分かったのですが、「ライブラリ」は自分の病気の部分、或は社会との関わりの中で、擦り剥けて、怪我をしてしまった、患部と関わりあう為の何か、みたいですね。「接ぎ木」とか「寄生」といった表現になった所以かもしれません。
次回は4月頃ライブをしたいと考えていますが、スケジュール調整でどうなるか、目下未定です。ただ、「こうすればいい」という公式的なフォーミュラは、時間の流れ、命の流れ、から乖離し、流れを無視し易いものかもしれません。そもそも、それに依って擦り剥けてしまったのでしょう。
それまで、それまでの分を、生きて行ければ、と思います。
2014.12.1
「水銀」
銀色の腕を肩まで差し込む。 心臓の組織と混ざって放射状に拡がっている。 (たこ焼きに使う様な?)刷毛を思わせる。 歩く、不思議な文字で、物語りが刻まれていく。 それは無数の階層を持った宇宙に響いて行く。 できるだけ、一定のスローペースを保ちながら、歩を進めて行く。 指先に、暖かみを感じる。 手塚治虫の漫画「火の鳥」の様な、炎のオレンジ色、そして命、鳥(不死鳥)がそこにいる。 右手の指先にそれを感じる。 歩をゆっくりと進める。 目を閉じ、同時に転ばない様に、目を開きつつ、一定のペースを保ちつつ。
2014.11.26
「合せ鏡」
右手が、より細かく、歩みに反応し、複雑な溝を刻み始めた。 腕の食い込む深さも、微妙にそれによって調整される。 立体的で、より多くの情報が、心臓に刻まれるのだ。 目を閉じ、全てを感じ、集中しつつ、溝を刻み込んで行く。 まるでモニュメントの様だ、と思う。 そこには不思議な文字で、物語りが刻まれていく。 僕自身の歩みの物語りが正に刻み込まれていく。 遠くから、とても大きな音が聞こえる様に、「ドックン」と心音が響く。 僕自身が、僕自身の物語りを刻み込む、と、刻み込む時に、それはあたかも合せ鏡みたいに連鎖して行く。 そこには無数の宇宙が拓ける。 溝が何層にも、同時に、深まって行く。
2014.11.24
「違う国の人々」
今月は、アメリカに住んでいた時の知り合いや、師匠に思わぬ再会をする事が、2回もありました。
月初めには、僕ら夫婦と仲良くしていた家族の母親とその娘達、以前はまだ小さい子供だったのに、今では結婚してたり、気付かぬうちに食事代先に払っていてくれたり、不思議な感じでした。もう会う事は無いと思ってたのに、その間、時はしっかりと流れていた様です。
そして昨日は音楽の師匠であるDarek Oles (wb)とLarry Koonse(g)と再会。
Bob MintzerのBigband のメンバーとして来日したのだそうです。 おかしかったのが、自分は普段あまりビッグバンドは聴かないんです、と言ったら、2人共「自分たちもそうだし、そういうスタイルの演奏家だとは自分では思ってなかったから、オファーが来た時少し驚いた」そうでした。でもBob Mintzerのアレンジや全員の演奏が素晴らしく、(僕が)客席で聴いていても、(彼ら)演奏家達も、全員素晴らしい時を共有した、と話し合いました。それに関しては、何も難しい事はありません。本当に素晴らしかったです。
演奏前と後に、かなり長い間、Charlie Hadenの事、音楽や、人となり、思い出話、等について、その後のCalArtsの様子について、レッスンの思い出話等、話し合い、それらが、音程や、タイム感、メロディー、といった演奏上の具体的な出来事と、彼らの内部で、密接に結びついている、そこから、空気、人々、文化、世界、といった、異国の風景が滲んで来て、心が洗われる様に、何かが純化されるのと同時に、しきりに「違う道・the different path」という言葉が、心の中で、繰り返し、囁かれるのでした。
別れ際に、Larryに、この国には、文化的にも、精神的にも、霊的にも、病的にも、欧米と違う部分が沢山あります、自分は、その中に居て、その一部として生活しているし、そういう人づきあいや、病的な部分も含めた、様々な課題、それらが、自分自身の問題、として感じられる事、が好きだし、それは、あなた達とは「違う道」を歩いて行くのだと思う、と話しました。それに対して「もし宇宙(universe)がそうしてくれるのであれば、いつか一緒に演奏したい」との返事でした。色んな事が、以前よりもずっと、深いところで、やりとり出来たり、楽しめる様になっていました。 この国のお陰だと思います。
あと、この再会を通じて、僕が生徒だった当時も今現在も、彼らが、如何に真剣に、それこそ身を削って、生徒を教えているのか、知りました、正直少しショックな程。素晴らしい教師に恵まれている事を痛感しました。
2014.11.20
「夢」
少し大きめの家、或は日本のマンションに住んでいる。 大きなリビングルームは一段下がった、吹き抜けで、廊下の途中に一段上がった小部屋、奥に八畳の寝室がある。 アメリカ時代一緒に音楽の勉強をしていたピアニストのS君が居候している(居候と言っても三日位)。廊下の小部屋を使用している。そして、どこかに去って行く。別れ際に「どうもありがとう」と挨拶された気もするが、朝、目を覚ましたらいなくなっていた、という気もする。 彼がいなくなった小部屋に入ってみると、二畳程しかない。思っていたよりも狭いので、ここでどうやって寝ていたのか、と驚く。 譜面台があり、書きかけの曲がある。タイトルに、村上春樹の小説を題材にした、と、書かれてあり、「あいつはいつから、そんな風に作曲する様になったのか?」と意外に思う。
(その他にも、高校時代の友人M君が居た様な気もするし、過去の様々な関係者が、今、一体どの様な意味をもっているのか?はなはだ、おぼつかない、謎めいた印象で、チラチラする。)
2014.11.16
「つまんない」
他人の話を聴くことの大切さと、難しさ、にはたと気づいて、もう何年も経ちます。それは自分自身に耳を傾ける事の大切さと、難しさ、にも繫がってると思います。年齢とともに、難しさは増し、飛び越えれそうだった溝は、実はグランドキャニオン位、なのが案外「普通」なのかもしれない、と感じます。だけど、それは広大なスペースでもあるわけで、横だけではなく、上にも下にも斜めにも、行こうと思えば、行ける、故に諦めては「つまんない」のだと自分は思います。対岸に着かなくても下にはコロラド河もあります(じゃあ、それでいい、と思うと溺れたりして)。
だけども最近、それでは「効率」が悪く、話が先に「進まない」ので、というスタンスで、他人のみならず、自分自身に対しても「見切り発車」してしまう事が、敢えて言えば「ファッショナブル」的な気安さ、無意識さ、で広まってる様に感じる事がありました。
具体的には言いませんが、例えば、ある議論があったとして、双方が「あいつはマル」「自分はシカク」と自他共に「気安く見切」ったスタンスだとしたら、いくら「熱い」議論でも、いたずらにヒステリックなだけで、重要に感じるのは、熱に浮かされている間だけ、の騒動になりかねないと思います。議論を展開する段階ではないのかもしれません。
内容によって、さっさと話を進めた方がずっと良いもの、ももちろんあるでしょう。だけど、「底上げ」みたいに、おしなべて平均化した変化を見てしまうのは、SNSの様に、比較的限られたスペースで、「データベース化」したやりとりが普及していること、もしも商売ならば、奇麗にも汚くも成り得るお金、などという考え方ではなくて、「お金はただの数字、多ければそれで良(善)い」という身軽さ、が、(再び敢えて言いますが)「ファッショナブルに羨望」されがち、な事ともリンクしているのかもしれません。ファッションは服装で良いと思います。
そういえばM.エンデの児童文学『モモ』は「あらゆる事」に「効率」を求め過ぎて、死ぬ程忙しくなってしまう物語り、でしたね?宗教化した効率、と言うと、物語りのせっかくの面白い部分が台無しになってしまいます、正に「見切り発車」!これを機に、分かった気にならないで、再読しようかな。
そうなんです、物語りのペースで物語りを読むと、要点・要約ではなくて、ちょっとした、何でも無い表現や、接続詞の一つが、世界と繫がってるのです。 長くなりました(笑)。
2014.11.12
「安定について、少し学んでいる」
右手が水の様に、液体化しているが、流れ去る事はない。 ゆっくりと歩を進める。 時々恐怖心が心を捕らえる、もし、急に、身体全体まで、水になってしまったら、どうしよう? でも、そうならない事は、分かっている。 ゆっくりとした、ペースで進んで行く、これは、テストでもある。 肩の部分まで、液体化が進んだり、腕の方まで戻ったりしつつ、それは、安定している。 安定について、少し学んでいる。 哀しみの感情は、深く、ゆっくりと、そこにある。
2014.11.11
「深く、拡がっていく、哀しみの感情」
ゆっくりと手のひらに感じる、ひんやりとした、流れる感覚を確かめながら、歩く。 景色は横浜だったりもするが、ほんの一瞬の事で、心臓のぐるりに廻らされた1人分の細い通路を、歩いて行く、それ(心臓と通路)以外の景色は、白くて、よく見えない。 右手に意識を集中する、心臓からは哀しい感じが伝わってくる。 ゆっくりと、そして、深い感情、ゆっくりと歩を進める。 深く、拡がっていく、哀しみの感情、手のひらを通じて、液状の変化が、腕の方にも伝わってくるが、決して、同一化したり、形が無くなる事はない。 感情の深さ、心臓の気持ちの現れとして、腕までの変化が、起こる。
2014.11.2
「1年前よりも」
さっき1年前の、この日記を読んだ。2013年10月末〜11月の数日間。結構面白かった。自分で楽しめるんだから、それだけでも得な気分もする。
で、1年前を振り返って、今の方が1年前よりも:
- 人が好きになっている - 楽器そのものに近付いて、それを通して世界を見ている - 自分の物語りを1年分生きて来た
と思った。決して楽じゃないけど、悪く無いと思う。
2014.10.29
「卵かけ御飯」
昨夜、演奏の帰り道、12時過ぎに、我慢できずに、晩ご飯を食べに、中華店に入り、卵かけ御飯と餃子4個を注文。何か言いたそうな顔で「奇跡です」と店員が言うには、「これ、黄身が2個入ってました」。 「それ程の事では」と思いつつも、疲れてたので「では、ありがたく頂きます」と言ってお互い笑いました。 お勘定の時に「別に味は普通の卵でしたよ」と言ったら、店員さんニコニコしながら「でも良い事あるかもしれません」、だそうで、内心「それがいいことかもなぁ」と思いつつ、居眠り運転と格闘しながら無事帰宅。 今朝おきて、卵の殻、2つの黄身のイメージが、最近の自分の中にある、夢や、イメージと関連している事に、はたと気付きました。
2014.10.27
「カルテット・ウエスト」
ところで昨夜は「益子博之×多田雅範=四谷音盤茶会 vol. 15」にお呼び頂き、色んな素晴らしいCDを聴かせて頂きました。幾つか購入したいタイトルもありますが、深層レベルでの、日常生活に於いて、チャーリー・ヘイデンの死後、特に愛おしいのは何と言っても「カルテット・ウエスト」です。 自分は、どう感じるか、が、全てな人間な気がして、ジャンルによるこだわりの様な物も(恐らく先入観も)始めっからあまりありません。ただ、7月に師が旅立ってから、愕然と気付かされた事は、感情の「種類」ではなく、「深さと強さ」ということです。 特に、以前は子供だった、だけども、今はもう「大人」の持つ感情」、その中には「子供」も含まれるけど、「大人」もちゃんと居る、事の素晴らしさ。 特にカルテット・ウエストが、日々欠かせない、メモリアルになっています。
2014.10.24
「生きろ」
昨夜、1人で佇んで居た。 その時に、ふと気付くと、あるイメージを確認していた。 ただ、その事に素直でありさえすれば良いのだ。
自分の中心に、球体の心臓が在る。 割れた卵の殻の様に、上部が塞がり切っておらず、内部が見える。 その中には宇宙がある。 中心には一つの星が在り、何億光年も離れた所から、白くて静かな光を送っている。 心臓を取り巻く様に、球体の身体が出来つつ在る。 飴色をした、飴の様な素材が、鍾乳石が育つ様に、同心円状に、心臓を包みつつ在る。 飴色の身体を取り囲む様にして、真っ黒い四角が形成される。 黒煙の様な、そして、宇宙とは別の、だけど同じ様な深みを持った断面を展開する、真っ黒い四角。 何億光年も離れた星の光/宇宙/卵の殻の様な心臓/飴の様な球体の身体/真っ黒な四角。 全ては独立していると同時に、お互いがお互いに流れ込んでいる。 全ては繫がっている。でもそれは「ほらね、繫がっているでしょう」と説明できる繋がりではない。 お互いがお互いに流れ込んでいた。 そう思った時に、「生きろ」という命令形の言葉が聴こえた。 そういえば、これまで「生きろ」と命令形の言葉を聴いたことが無かった。
2014.10.16
「神に命を吹き込む」
政治の道具になる時に、神程傷付く者は無い。 そして政治程、神を傷つける事が可能な者も無い。 その(誰の目にも触れずに行われる)ダメージは計り知れず、最も傷付くのは子供達だろう。 アーティストのほぼ唯一の仕事は、(例えば神がアダムにした様に)損なわれた神に、命を吹き込む事 だろう。 定義できない神に。
2014.10.10
「ハイスタンダード」
11年間のアメリカ生活を切り上げて、1999年11月に帰国したのですが、その頃に見た少し怖い夢を思い出しました:
アメリカ郊外の比較的大きな家で、賢者の集会が持たれている。20人位の中年男女が、白い麻で出来た服を着て、各々が超能力を行っている。彼らは、超越した意識を持っており、道徳的にも「賢者」と呼ばれる、人知を超えた、善悪の力に精通し、より高次の「善」を実現しようと、定期的に集まっている。部屋の好きな場所に、皆勝手に座り、目を閉じ、意識を集中して、ある者は赤い玉を空中でいくつも並べたり、「調和」を求めて、超能力を駆使している。
突然、何の理由も無しに、暗黒の紛れもない恐怖が彼らの心を襲う。ちっぽけな人間の知恵や努力で、根源的な「力」を「利用」しようとするなど、おこがましく、身の程知らずも甚だしかったのだ。
恐怖に顔を引きつらせ、叫ぶ間もなく、1人、また1人、と、頭が真っ赤な風船の様に弾ける。後には頭部のない死体が、いくつも横たわっている。
場面が変わり、若い男女の警察官がいる。これはハリウッド映画で、彼らが、この事件を捜査する、という筋書きらしい。自分が見ている夢は、その映画の宣伝。「ハイスタンダード」というタイトルが画面に映し出される。
・ ・ ・ ・
昨日も今日も、練習中に(ゲド戦記の影響もあり)「影」という事を意識していたのですが、それと関係があるのかも知れません。
2014.10.6
[ライブラリ] ライブ 11/28Fri. @四谷喫茶茶会記 のお誘い
自我の枠組み、ジャズを「奏でる」という門をくぐる事によってのみ、体感されるパラダイム。結果を比較するというよりも、あくまで「音になる前」の何か、に個人的手掛かりを感じ、様々な文学作品を足場に、自分の心の在り方、をマッピングして来た「ライブラリ」。「音になる前」の比重の大きさ、「結果オーライ」という事自体が矛盾となってしまう。その様な一種「異形」な在り方に対する根源的な希求。同時に、「図書館ーライブラリ」には、「本になる前の図書館」が在る事に気付き、「図書館」という名で指される何か、が内在化しはじめた。
リーダーである蛯子健太郎が、「どのような気持ちでメンバーを率い、音を出したか?」がほぼ全てと言ってよいライブ。「結果オーライ」ということは存在しない、「結果失敗」は可能性としてはあり得る。もちろん全力で避けるが。
ご来場下さる方の、貴重な時間とお金を費やして頂くに値する、コミュニケーションを達成したいと思います! 楽しみにお待ちしております。
蛯子健太郎
[ライブラリ] Kentaro Ebiko Original Jazz ENSEMBLE 蛯子健太郎(contrabass)三角みづ紀(vocal)橋爪亮督(sax)飯尾登志(piano)井谷享志(percussion) 11/28 Fri. @四谷喫茶茶会記 19:30(開)20:00(演) ¥2,500(incl.1drink) 新宿区大京町2−41F 03−3351−7904
2014.10.2
「アース・シー」
アーシュラ・ル・グイン著「ゲド戦記」数年振りに再読してます。「魔がさす」は悪い事に関して使う言葉ですが、そんな感じで、心身共に疲れ切った時に、ふと、読み返したくなったのです。
少し驚いています。以前すんなり読み進んでた部分、ちょっとした表現、が思ったよりも、ずっと深い所から響いて来た、複雑で、頑丈な構造を持った魂のほんの一寸だけ水面上に見える、氷山だと、以前にも増して、感じてしまうからです。
今は1巻目の最初の方を読んでるのですが、3巻目「さいはての島へ」の事を思い出します。 自分なりの要約ですが、この世とあの世、生と死の境目を、ある魔法使いが、いじってしまい、人が「ちゃんと死ねなく」なるのです。そのせいで、世界中の詩人が詩を詠めなくなり、歌手が歌えなくなり、土地に根付いた美しい民芸品の織物からは美しさが消え、、とにかく決定的な「何か」が損なわれてしまう。という内容でした。
実は自分が今感じている「世界」が、どんどんそれに近付いている様な気がして、そんな中で音楽をやる事は、(自分には)どこか遠くの、地の底で、決定的な水路がいじられていて、よくは分からないけれども、何かが視界の外でおかしい、という感覚との、神経症的な葛藤でもあるのかもしれません。
例えば、数十年前に比べると明らかに加速して迫っている現在の感覚、という物がある様に思います。
そんな疲労で、あらためて読みたくなった物語りなのかもしれないです。一頁毎にうなります。
2014.9.27
「投影」
周知の事かも知れませんが、
もしかしたらより広い意味で、
人間は投影する生き物。
投影に過ぎない、のではなく、
投影をしない人間は無く、
それは、他の動物にとっての本能、に近い物。
恐らく機械は投影しないだろう。
アンドロイドは電気羊の夢を見るのだろうか?
2014.9.24
「未経験」
ここ数日は、特に未経験の状態にいます。
特にというのは、それまでだって、一秒先の事はある程度、過去の経験の蓄積の仮定した延長であって、大方突拍子もない事はそうそう起きない、という前提の基に生きて来ただけであって、厳密には「未経験」に変わりは無いのですが、特にそういう感じがする、のです。
こんな時は、特に前からの親しい知り合いや、友達と時間を過ごして、自分を確認したくなる物ですし、それが健全でもある、ともされていますが、特に未経験の状態、に含まれる何か、が、そうしないで、出来るだけ今まで通りのペースを保って他人と接する様に促すのです。そして、その状態に耐えられる自分がいます。その感覚も含め、特に未経験な感じがします。
時間の先っちょに居る感じ、とも言えます。時間を、巨大なタンカーに例えるなら、今までは、船の前方3分の1に居たのに、今ではその先っちょに居る感じです。
うーむ。多分、それでも、一応キチンと社会生活を送っているので、取り乱しもしなければ、平静を保っているのでしょう。
そういうのも含めて、いろいろ未経験な感じです。
2014.9.9
「夢9/9」
日本の山間のボロ屋に住んでいる。 谷間に面して建てられていて、床下は崖、木の柱で支えられている。 かみさんと、高校の同級生のS君が一緒にいる。 雪が降って少し積もり、道路が凍結している。 「こんなんじゃ、仕事に出かけるのが大変だ」 とかみさんが言う。 「出かけるのが大変だな」 とS君が言う。
バスに乗っている。 山間の道路を走っている。 高い橋の上で、川、河原、河原に男女のカップルが歩いているのが、遠くに見える。 バスの車内には、自分の他に、中年の男、もう少し若い女性、もう1人姿の見えない女性が居る気がする。 我々は行動を共にしていて、ある山中の施設に向かっている。アートスクールと病院が一体化した様な所。 着くと、中年の男と女は、バスの中でどこかに消えてしまい、もう1人の女性(同年代)とバスを降り、建物まで歩く。 彼女は空のダンボールを幾つか持っているので、 「手伝おうか?」 と言うと、箱を一つ差し出されるが、手がもう一つ空いているので、もう一つ空き箱を運ぶ。 施設の中は寮になっていて、彼女の部屋まで運ぶ。 今から、学内でやっているアルバイトだと言う。 彼女はいったん部屋に入り、出て来ると、白髪の警備員の男になっている。 ユニフォームを着ている。 |
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115.8.13~16.9.9 5.1.30~15.8.9 14.9.9~15.1.27 14.4.30~9.7 14.3.10~14.4.21 14.2.12~14.3.9 13.11.7~14.1.29 13.9.10~13.11.4 13.5.31~13.8.31 13.1.23~13.5.27 12.12.31~13.1.16 |
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