kentaro ebiko's web site

目に見えない迷路の中を、迷うのではなく、正確に辿っていると、不思議と自由を感じる。Library - original jazz band official site

 日記                   

 

2018.5.14

 

「自然な世界」

 

年齢を重ねてきて思うのは、年齢を重ねるのは大変な事だ、という事だ。どんな子供でも知ってるけど誰でもいつかは死ぬ事になる。だけど子供は中年の様にはおそらく分からない。誰に対しても時計の針は同じペースで刻むので、身の回りを見ても一斉に明らかに死が近づいてきて、みんなで「それとなく」確認しあうので、そういえば昔読んだブラッドベリの短編で、世界の終わりをみんなで静かに会話しながら迎える、ってのがあったけど、なんのことはないです、年取ると嫌でも自然とそうなるんだなぁ、と。最近「年金」という言葉を耳にする機会も増えたし、その響きも10年前とは全然違う。ちょっとした人生の仕組みも少しだけ見えてきた様な気にもなります、これも10年前には文字通り、なんの脈絡も繋がりもなく見え、ただただ苦痛でやりたくなかった事が、今振り返ってみると自分のやりたい事とセットで全体像が出来ていたり。そんなことやあんなことがちょっとだけ見えてくると、その見えてきたことのサイズに合わせて新たに色々なことが起きたり、例えば親の老化に伴って親子関係も少し変わってきたり。

で、こうして振り返ることができる地点まで生きてこれて、自分なりにクソ真面目にやってこれたのは良かったんじゃないかと思います。なぜかというとそのおかげで、自分では見えていなかったいろんな事の繋がりが意図せずに保たれたと思うから。その繋がりは振り返るという形でしか確認できないのです。そう思える事はせめてもの慰めになります。

 

 

2018.5.3

 

「いいな」

 

原点回帰、って大袈裟な感じがするけど、なんだか「北回帰線」というか、地球規模の出来事みたいな。

そんな大袈裟なことではなく、今朝久しぶりにチャーリー・ヘイデンとキース・ジャレットのデュオ「Last Dance」聴いてて「いいなぁ」と思っています。やっと深く呼吸できて、ばらばらだった身体がゆっくり一つにまとまるような気持ちでこれを書いています。

話が飛躍しますが、誰でも「そんなつもりはなかったのに」ということがあると思います。そのことで更に想定外に疲れてしまったり、まさに「そんなつもりはなかったのに」ですよね。自分も昨夜「そんなつもり〜」があって少しショックでした。

詳細は触れませんが、いろんなことが起こり得る世界で僕たちは頑張っているんだな、という事だと思います。それでも、昨夜自分に起きた事のように、身体が意識に反して止まってしまう、というのは、ある意味、本当に個性的なんだと思います。

詳細を書かないので、分かりづらくて申し訳ありませんが、その事で思い出されるのが、ある知り合いが先日、昨夜の僕と似た様な状況に立たされた時すかさず「無理無理無理無理!」と事態が起きる前にパッと決断して明確な意思表示ができてた事です。それを見ていた僕は「すごいな〜」とその知り合いを尊敬したのですが。僕の場合、頑張ればなんとかなる、と意識では思ってるのに、気付くと意識と関係無く身体が動かなくなってしまった。それだったら、言い方は難しいし、波風も立つかもしれないけど「無理無理!」とハッキリ即断して意思表示できるのが大人、とも言えます。だけどね、みんなもういい歳した大人なんですよ。大人って言ってもどうしょうもないことだらけです。

話のオチは、敢えて付けるなら「いろいろな事があります」ということでしょう。

でもそれって「Last Dance」を聴きながら書いていると素晴らしいことの様に思えます。

だから書いたんだと思います。

 

 

2018.5.1

 

「無理矢理」

 

無理矢理何か書こうと思う。何故かというと更新されないコンテンツは良くない、と常日頃思っているから。その割にはもう1年以上もこの日記の更新ペースはかなり疎らになっている。というのも更新したくとも更新しては「いけない」という程の独り相撲をさせる理由が僕の中にはあるから。やはり「ライブラリ」という、ささやかなれども全身全霊をかけて12年も続けて来たオリジナル曲をやるバンドが活動できなくなった事は大きなきっかけだろう。活動できなくなった事には様々な理由がある。だけど、最後のライブから1年以上経って思うのは「なるほど」と言う気持ち。再びやる、やらない、の視点では無く、、そうなんですよね、大袈裟な言い方を許して欲しいのですが、宇宙が足元からパーっと広がったようです。

なかなか整理された表現はできませんが、視点というのがキーワードです。ライブラリとして今まで僕がやってきた事は実はこういう事だったのかもしれない、それならば生きるという事と共に、この様に変化していくという事も有り得るな、という視点。

同じところにとどまり続ける定点観測にも勿論意味があるでしょう。しかし自分が主体客体の両方でもあり、生き物として動物や草木の様に変化していく時に、こうでなければならない、という頭の硬さ、決まり切った考えを脱皮するには、思いもよらない、想定外の力が外から働く事もありうると思います。

その視点について、見えてきた物の内容について、多少なりとも、そして何気ない風に触れようとするとき、僕は読まれてるかもわからないこの日記を更新しては「いけない」という独り相撲をとる羽目になります。

だからそういう事には触れずにこの日記も更新していきたいと思います。

 

 

2018.3.16

 

「リーダーライブを終えて」

 

先日3月15日は僕のリーダーライブ「Simple But Love Songs」にお忙しい中たくさんのお客様にお集まりいただき心から感謝いたします。実は演奏しながら、複雑な心境になるような幾つかの外的内的要素があり、以前の自分であればそれに抗いつつ、踏ん張るだけ踏ん張って疲れて終わり、だったと思うのですが、今ではそれも込みで楽しめる様になった様です。具体的には言いませんが、それら諸要素は振り返ってみると、洗礼、通過儀礼の様にすら感じられます。そういえばライブの前日、今見えている、自分がやるべき事、について、ある友達に話したばかりでした。その内容はここで書きませんが、敢えて言うなら分かりやすい事でも、努力が目に見えて直ぐに報われるような事でもありません。その「自分がやるべき事」をリーダーライブでやると言う事はどういう事か具体的に経験できたのだと思います。帰宅後風呂の中で、「あー、やるべき事はやったんだなぁ、ナルホドそれはこういう風に感じるのは腑に落ちるなぁ」と納得できた次第です。「どうだ、お前にとって音楽をやるってのはそういう事だ、やれるもんならやってみろ」と言われてるかのようです。もちろんそういう事を始めから目論んでライブに臨んだ訳ではありません、それは様々な現場を通じて徐々に見えてきた事であり、リーダーとなる事によって、より責任を伴う形で経験できたのだと思います。「その」内容は今も、今後も、うまく書けないし書かないので、抽象的にすら言えなくてすみません。それよりも音楽の事は音楽で出来れば、と思います。やれるもんならやってみろ、です。是非今後ともよろしくお願い致します。

 

 

2018.3.13

 

「意識の変化」

 

自分に起きる様々な出来事と、それに伴う意識の変化を、なんらかの形で、言語化して整理、記憶しないと、混乱する、あるいはよく分からない気分に振り回される、タイプの人と、言語化なんか余りしなくても、上手く自分の意識や思い出と付き合っているタイプの人がいる様に思います。自分はこんな文章書いてる程だから、前者の傾向があると思います、後者の事は憶測でしかありません。で、面白いのは、言語化して整理しないと混乱しやすい僕のようなタイプに、自分の言語能力を超えた何かが起きた時、ぼんやりしていて出来事に気付いていない時、その両方、だと思います。自分に関して言えば、その様な時に、ぼんやりせずに一歩引き下がって、「あ、なんだかよく分からない事が起きている」ともし思う事が出来れば、そこから足場にして考えていく事ができます、そうして考えていると、他の人が「それはこういう事かもしれませんよ?」とヒントをくれることもあります。あるいは読書や音楽、映画や景色や遠い知らせ、出来事が、より深い意味を持つことも多いです。それにしても意識のあり方が、その人の人生で変化していくのって、こういう風に変化していくのです、という風には分からないものですね、前もってわかってたらそれは意識が変化していないんだから。実は自分一人きりではすぐに言語能力の限界を超えてしまう事が殆ど全てで、だけど同時にその限界を超えてしまう様な出来事、それ自体の中にヒントがある、のが面白いのかもしれません。あと、ぼんやりしていて、よく分からない気分に振り回されそうになって、混乱して、ずっとそうしてきて、挙げ句の果てに考え始めた様にも思えます。

 

 

2017.12.30

 

「1998年2月18日生まれの兄弟猫達」

 

1998年2月18日生まれの兄弟猫達、モモ、タケシ、ツヨシ、2015年1月にモモが旅立ち、2017年12月にタケシ旅立ち、今はツヨシがカウントダウンが始まりました。生きてればみんな終わりが来ます。モモは最後は「ありがとう」と言ってました、タケちゃんは「じゃあね」でした。とても悲しいけど、みんな本当に立派です。ツヨシは今朝は水も飲んで、今は日なたぼっこしてます。

ツヨシはタケちゃんが旅立ったあたりから缶のa/dというご飯とカリカリ両方食べてたのが、暫く前からカリカリが食べれなくなり、一昨日までは缶のご飯をとても美味しそうに食べてましたが昨日からはヤギミルクや、チュールをスプーンで口まで運ばないと食べなくなりました。必ずお別れが来ますね。

 

 

2017.10.8

 

「音楽の力って何?」

 

単刀直入に言って、音楽を作る人が、音楽の力を信じる事が出来なければ、この世は終わりだと思う。

確かに偉大な音楽家のインタビューなどで、音楽の力に唯一の希望を託している発言を聞く事がある。

しかし残念ながら、私感では、いとも簡単に音楽の力が音楽家の意識から遠ざかる事がなんと多い事か。

「そんな事ない」と言われるかもしれない。

だけど、時事、経済、生活、議論、理論、人間関係、それらの切迫した眼前の諸事情に私たちは何ともたやすく音楽を「付け加えるように」扱ってしまう事か。

例えばこの文章自体、音楽の力、という事をテーマにしながら実際の音楽の力とは全く関係がない。

関係がないどころか、音も鳴っていないのに語っているだけで、あたかも音楽のふりをしているという時点で有害ですらある。

これは文字であって音楽ではない。

音楽の力は音の中にしか存在しない、ましてや、政治的な効果や、経済的な効果、は後から語られた結果派生するかもしれない物であって、それ自体の良し悪しは政治や経済の分野に属する事だろうし、音楽について語った言葉ですら、それは言葉の世界に属する事だろう。

だからこの文章も実際の音楽の力とは全く関係が無く、言葉の世界に属している。

音楽を作る人は信じる音楽の力について、何よりも黙っていなければならないし、黙っているしか出来ない。

もしそれについて語るのであれば、それは本当に特別な時だけだと思う。

だけどもし、音に触れて、簡単に語ったりしないで、或いは「全てを」語ってしまおうとはしないで、大事に沈黙を守ろうとするなら、音楽という私たちの一部でありながら把握の出来ない生き物は力を得、育ち、他者とは共有できない、個人的な方法であなたに語りかける時があるに違いない。

「音楽の力って何?」という問いに対して「音楽の力はある」としか答えられない。

 

 

2017.4.29

 

「断ち切る、から、乗り越える、へ」

 

問題を内包した人間関係があり、もう何年もその問題に、誰にも打ち明けずに、一人でコツコツと取り組んできた場合、そして、その取り組みの末に、今までの努力が全て虚しい徒労であったかのような、表面上は残念な結果が生み出された時に、まるで恩寵の様に、その結果を受け入れられる程度に、少しだけ強くなっている自分を発見することもあるらしい。

その特定の関係の対象である「相手」は全く変化しなかった(自分は相手に、自ら気付いて貰いたい大切な事があった、勿論言葉は届かなかった)、故に表面上は疑う余地のない失敗なのだが、結果、関係を断ち切るのではなく、自分が恐れや、劣等感さえ感じていた相手の「世界」がシューっと音を立てて萎んでいき、そこに僕自身のための空間が、存在していることに気がつく、魔法や、呪いのように、今まであった、相手の世界がもたらしていたフィルターがゼロになっている、もう学ぶべきものは学び、出汁をとった後の煮干しみたいに、だけどそれは「出汁をとった後の煮干し」として、ちょっとユーモラスに僕の世界に存在している。

そんな不思議なことがあるのだ、と思った。

そして魔法や呪い、と言った様に、自分と似た所があるが故に、気付かぬうちに共鳴していたのであろう、卑小感の裏返しのくだらないプライドや、能力と同化してしまう様な、劣等感の裏返しの自惚れが、気付いたらもの凄く小さくなっていた。今まで知らなかった身軽さと、より捨て身になれる真剣さ、そして他人の存在がより大切に、より大きく感じられる、全く予期していなかった認識を体験した。そして断ち切るのではなく、(恩寵の様に)乗り越える限り、そこには文字通り想像もできない様な可能性もあるのだろうと思う。あくまでも事実として。

 

 

2017.4.18

 

「ジャズと優等生コンプレックス、自身の希薄さ、について、個人的に思う、自分自身のこと」

 

僕はこの数年、幸運にも数箇所でジャムセッションホストの仕事をさせて頂くことが多いのです。仕事ですので、擦り切れそうになる事も時としてありますが、他の方と一緒に音を出し、アンサンブルの中で、何かが息づいている、事自体に、演奏技術や、知識の多少に「全く関係無く」、僕自身よりも遥かに大きい何かを感じ続けております。それに押しつぶされそうになる時もありますが、同時に自分の大切なテーマであり、励みなのです。そこには正解は無く、ただ深みがぽっかりと口を開けているだけです。

 

こんな事は、本当に言いたくないのですが、ジャズの巨匠と言われる人達には「隙だらけ」の方が沢山いました、生徒に「Someday My Prince Will Come」を歌伴のKeyでやってくれと言われて、間違えまくってたり、プログラムで一曲ファンク調の曲があったら、殆ど本番で対応できなかった別の人がいたり、いきなりポップス調の曲でソロが全く取れなかったり、、、冗談と思われるかもしれませんが、皆直接に僕が体験した、様々な「マスター達」の横顔です。

 

でもそんな事があっても、例えば日本でジャムセッションに来る、大方は優秀な、プロ、アマ、の演奏家、そして自分、に比較して、巨匠はあまり動揺しなかったのが、大変に印象的でした。日本では「誰の目にも正しいこと」や「皆が認める正解」が余りにも神格化されていて、各々の演奏家が、もっと混沌とした、自分自身を、意識的にガッチリと受け止め、耐える強さ、が少し希薄なのかもしれません。

 

いつもシュンと萎んだ気持ちになるのは、この正しさを巡る「ヒステリックな反応」です。正しい「だから」良い、正しくない「だから」悪い、、正しさのゆえに、主体である個人は瞬く間に置き去りにされて(何と言っても正しいのだから)、、正しくできないと直ぐに「あー恥ずかしい!」といって切磋琢磨してドンドン優等生になっていく、だけど「恥ずかしい自分」を「ゆっくり大切に受け止めるプロセス」の方がずっと必要なのだと僕は思います。勿論スイスアーミーナイフみたいな人は大変素晴らしいのですが、演奏者はそうでなければならない、という思考パターンの裏には安直で底の浅い、ヒステリーと、自信のない脆さ、を感じずにはいられません。切磋琢磨するのは勿論良いのですが、その過程で、正しさを巡るヒステリーから解放されて、マイペースで自分自身に向って欲しいのです。

 

信じてもらえないであろう、ついでに大それた事を付け加えさせてもらうと、市場原理主義が「全てでは無く」、人間が各々個性的に深まって行ける様な方向性に、ジャズの未来があっても良いのではないか、と思ったりもします。

 

2017.2.23

 

「散歩日記」

 

 

歩く速さに関係なく、

たとえどんなにゆっくり歩いたとしても、

人は急いで歩いてしまう。

今日は自分の骨の声を聴いた。

大地が無ければなにものも上に立つことができず、

何ものも存在できない。

自分は昔から天ばかり見て来たが、

今日、天は地の中に存在する事を感じた。

大地が無ければ天も存在できない。

人は天ばかり見たがる。

 

 

2017.2.5

 

 

「新種の螺旋」について

 

物事は(人生は、と言う意味です)その人なりのゴールに対する直線ではなくて、どちらかと言えば、螺旋状に進んで行く、螺旋状に時が流れて行く、という受け止め方、感じ方、、はたまに耳にする意見です。

僕もどちらかというと、直線や混沌、よりは、螺旋状に時間が経過していると、感じるタイプだと思います。

ただ、自分なりのバランスが取れた気になって、螺旋の「角度」を意図的に内側に曲げてしまい(笑)、新種の螺旋を発明した様な、近道をした気になってしまう、過ちを犯しやすいのだな、と思いました。

そもそも「角度」を曲げたら螺旋では無くなってしまいます。それでは本人が解った気になって、その実アンバランスになっているのだと思います。

それ程、世の中は直線好きで、最短距離を信仰したがる物なのかもしれません。

直径が同じ円運動を繰り返しているだけの様に見えて、一週目よりも二週目が、二週目よりも三週目が、徐々に深くなっていき、その深さに応じて、真上から見ると、遠近法で螺旋状に見えるのかなぁ、と思います。

時間の流れを無視すれば、直線に見える、二次元で感じれば焦ってしまう、

もう少し俯瞰で見ると円運動をしている、時間の流れを考慮すると更に彫りが深くなって螺旋状に見え始める。

そしてこんな風に簡単にまとめたがる自分の様な人間は、(まとめ、という事自体が直線だし)すぐに「新種の螺旋」の落とし穴にはまってしまいます。

書いてて何とも恥ずかしいです(こんなに長くなる筈じゃ無かった)。

 

「スターウォーズ」ではダークサイドについてみんな悪く言いますが、せめてダースベイダー卿の爪の垢でも煎じて呑みたいほどです。なんとも。

 

 

 

2017.1.23

 

「風の歌」について

 

僕は、

今できている事、

を、

もっと良くしようとして、

そもそも何が大事だったのか、

よく見失ってしまいます。

 

いつの間にか、

手段が目的にすり変わり、

未来という過去のある地点を血眼になって探し求め、

似て非なるものを「目標」だと勘違いし、

不思議なストレスに無頓着なまま、

呼吸がいつしか浅くなってます。

 

「風の歌」については、いろんな人が語っていますが、

散歩をしつつ、

風が吹くあぜ道を歩く時に、

風が一番「聴きやすい」ですw

メジロが群れをなして飛び立ちます、

トンビがゆっくりとグライドしてます、

カラスがせわしなく、だけどユーモラスに何かしてます、

これ以上スズメが似合う木は無いんじゃないか?という、庭先の葉っぱの少ない木に大量のスズメがと

まっています。

 

風が「びゅう」と吹くのをきっかけに、

はっ、と全てにきづきます、

鳥や、地面や、空や、太陽、

 

英語で、心理カウンセラーの事を俗語で「シュリンク/shrink」と言いますが、直訳すると「縮小」という意味のこの単語、「頭でっかち」を小さくしてくれるから、かもしれないな、と思いました。

 

3月11日のライブラリの事を考えつつ。

 

 

 

2016.12.29

 

「狂について補足」

 

大抵の人は止まらなければ「狂ってない」のかもしれない。

止めて見ようとすると、それは狂って見えるのかもしれない。

逆に狂人は何所か「止まってしまった」部分があるのかもしれないし、

社会の枠組みを外せば、それはそれで止まっていないのかもしれません。

 

(止まる、とはその人にとっての時間の流れ/物語、が止まる(を止める)という事だと思います)

 

 

2016.12.26

 

「この人、頭おかしいんです!」

 

我を省みても、自分はマトモだって安心してる人ほど、狂気だったりするとつくづく思うのですが、これって言葉にした途端堂々巡りするだけの、全く本当に非生産的な言葉なのを承知で、つい書いてしまいました。って書くと如何にもマトモではありませんね。

自分のキー・ジョークがあるのですが

「精神科に二人の男が行きました。先生の前でお互いを指差して言うには「この人、頭おかしいんです!」

 

 

 

2016.12.1

 

「ありがとうございました!」

 

10月1日と11月30日と二つの図書館系ジャズユニット・ライブラリのライブが皆様のおかげで無事終了しました。ますますかけがえの無いバンド、メンバーです!お忙しい中、足を運んでくださった本当に多くの皆様に心より、心の底から感謝します!

氷山の一角といいますか、音になる部分が淡い光だとするとその何十倍もの影の部分があります。そしてその影の部分が豊穣で恐ろしく危険でもあり、光の源でもあり、そして光は影の源でもあります。影を意識しようとすることは物語という成長をもたらします。

次回は3月11日四谷三丁目茶会記です。何一つ時間を含まないものはありません。「音楽でも文学でも無くて物語」なのでは無く、「音楽も文学も物語」なのでした。そして物語の90パーセントは聴くことでできています。

 

 

2016.11.18

 

「これは僕の物語以上のものではあり得ない」

 

否定的な事はあまり言いたくない、なぜなら「だったらどうなの?」という問いに自分が答えられない時にそういう事を言っていて、だったらどうなの?と自分自身で思うからだ。それでも理由が透けて見える音楽は恐らく最も興醒めするのは否めない。スタイル的に洗練されていようが、洗練されていなかろうが、クリエイティブであろうがなかろうが、立派だろうが貧相だろうが、昨日までの過去に存在理由を見つけていてそれが透けて見える時、そんなつまらない事はないと思う。表面的に魅せられたとしても後で残るうさんくささ。時が経つにつれて拡大する違和感。

とても微妙な境界線なのだと思う。はっきり割り切れる人間が(恐らく狂人を除いては)一人も居ない様に、一続きのグラデーションなのだろう。聴き手の座標も千差万別である以上、これは僕の物語以上のものではあり得ない。誰かが自分に対して似たような印象(昨日までの過去に存在理由を見つけていてそれが透けて見える)だって持つだろう。

「物語」は「物」「語り」と書くが、実は語らなくても良いのかもしれない。自分にとっては先ず聴くこと自体が「それ」だ。「物語」と言わずに「それ」と書きたいのは「語る」という字の持つ意味が強すぎるから。storyってどういう語源なんだろう?それに関しては全く無知だがstoryと言った方が聴く/語るのバランスがあまり気にならない。

何れにしても「物語」でも「story」でも余りにも立派な過去の完成品のイメージに接近し過ぎている。「聴く」という行為、「それ」だけではなく「それ」自体を意識し、殺さないように記憶する事。

そして「それ」はたんなる聴く事にとどまらず、同じところに立ちつくしていながら、足下が変化し、吸い込まれ、命はゆだねる事を要求し、ゆだねた時に物語自身の時間は聴き手である自分を呑み込む。だけど同時に「それ自体」を意識し、殺さないように記憶する事。

おそらくそれが、今の自分にできる最善の事、なすべき事なのだ。

チャーリー・ヘイデンが「Just tell your story.」と言っていた時、そういえばそこには絶えず、ある種の感情的なニュアンスが在った。彼がその物語を「感情的に」語った時に、初めてそれは「繋がった」のだ。

ジャズと文学の、ジャズとクラシックの、大きな違いではないだろうか?物語の出来栄えに対する評価はもちろん大切なのだが、物語るというリアルタイムの行為自体にジャズはこれまでにない独自の「居場所」を与えたのだと思う。それは物語という生命体に含まれていながら中々認められていなかったストレスであった。そしてその居場所は独自の吸引力を持った生命体の様に思われる。その吸引力は語り手の生命の一部として、多くを要求するが、物語という「時間を含んだ」依って汎用性に結び付きにくい原始的な物語に扉を開く。

 

 

2016.11.11

 

「自分に優しくするのは難しい」

 

自分から物語をとるとゾンビになってしまいます。あまりにも酷いので一週間以上前に飲もうと思って冷やしてあった缶ビールを久しぶりに飲んだら、ビールってこんなに美味しかったんだ!と思いました。もうちょっとでゾンビ化しそうでしたがビールに助けてもらいました。物語の速度って、怠けるのでもなく、かといって勤勉に頑張れば良いのでも無いと思いました。みんな人様には迷惑をかけない様にと躾けられてますが、自分に対しては厳しくしたり甘やかしたりはできても優しくなるのはすごく難しい様に思います。自分に対して、甘やかすのでも厳しくするのでもなく、優しく耳をすます事ができて初めて、自身が気付かないうちに語っている物語に気付く様に思います。それは訓練の様なものかもしれません。そうすれば他人の話にももう少し深く耳をすませられるのかもしれません。例えばかみさんなんかだと(ある部分、いや大部分w)最初から自分ほど病んでいないので自分自身に対して安定して優しい(甘やかすのでも厳しくするのでもなく)態度が身についていると思います。その様な人は敢えて自分の様に「物語」なんていちいちテーマにしなくても良いのかもしれませんね。まあ、あくまでも当社比なんですがw。そして僕の話なんか聴く以前にかなり正確に、予感で(笑)解っている気がします、あくまでも当社比ですけど。

 

 

2016.10.24

 

「ライブラリ、トムネコゴ、ジャムセッション、分からないままじっとする事」

 

昨日の昼間、久しぶりに吉祥寺の珈琲屋トムネコゴに行くことができた。11/30水曜日に四谷三丁目茶会記で行われる「図書館系ジャズユニット・ライブラリ」のフライヤーを置かせて貰うためでもあるが、それ以上の意味ももちろんあった。

日曜日ということもあって人でごった返している井の頭公園を抜けて店のドアを開け

「こんにちは」

と挨拶をすると

「おっ、こんにちは、蛯子さんは、いきなり来ると心臓に悪いので、今度から来るときはドアの外で口笛を吹いて下さい」

と言われる。「心臓に悪い」って言うのが、なんだか嬉しくて、同時に少しホッとした気持ちになる。

いつも座っている席に先客が居たので、モノラルのスピーカー正面のテーブル席に初めて座った。

偶然チャーリー・ヘイデンとハンク・ジョーンズのヂュオがかかっていた。

音楽の内容がここで聴くと掛け算で濃密になる。

なぜだろう。茅ヶ崎から遠く旅をしてきてたどり着いた薄暗い小部屋で、師匠の「音楽」=「物語」に全く偶然出会う、という、過程も関係しているだろうし、家だとついつい「ながら」で聴いてしまう、ということもあるだろう。だけど、そんな理由を列挙する事が馬鹿らしくなる程の体験だった。

大袈裟でも卑小化でも何でも無く、それは自分に「必然」だった。

持参した「荒野のおおかみ」は殆ど読み進められず、ただ目を閉じ、「そこにいる」。いつしかキース・ジャレットとヘイデンのデュオに替わっている。

先日10/1にほぼ1年ぶりに行った自分のバンド「ライブラリ」のライブで、準備も含めたその全過程を通じで、自分に変化があった。それは「物語を聴く力」が以前よりも少しだけ深まった、ということだと思う。

相手の話を、自分の知っている別の話に類型化して勝手に納得するのでも無く、語り手の間を自分にとって都合の良い「似て非なる物語」接ぎ木するのでも無く、全然足りないが、以前より、少しだけ待つ、そして「聴く」。

「聴いてごらん」今ここでなら伝わると思うから。そのようにしてヘイデンとジャレットのヂュオアルバム「Last Dance」を聴くことができたそれは自分には「必然」と感じられた。

でも続きがある。あくまでも「少しだけ」深まった「聴く力」は「少しだけ」の故に、同じ晩のジャムセッションのハウスベーシストとして、痛烈に試されることになった。自分は耳を傾ける、しかし相手はその「敷居を超えて物語る」。例えば、アンプにつないだギターから音は出ない、覚えたての技を試そうとしてすっとんきょうな音量で、拍をすっ飛ばして叩かれるドラムスの御客さん。その中で、だけど自分は「そこにいる」ということがなかなか出来なかった。少し怒ってる様にも見えたかもしれないが、そうではないと思う。せっかくアンサンブルという「生物」が命を得ようとしているのに「自分の技や音楽的知識」で全て解決する、という洗脳にも近い刷り込みがされていて、その現状の中で、悲しさばかり感じていたんだろう。

「物語」

それが良いことなのか悪いことなのかは分からない。分からないまま、じっとして、1日を振り返り、昨夜は寝たのは5時頃だった。

分からないままじっとしていれば、良いと思う。

 

 

 

 

2016.10.6

 

「ブラフマンとヘグの埋葬」

 

小川洋子著「ブラフマンの埋葬」読了。

素晴らしい、と思っていた。

こんな素晴らしい小説は読んだ事が無い、と思い、ブラフマンがいつしかル・グイン著「ゲド戦記」のヘグと重なっていた。ヘグは「ゲド戦記」シリーズの中で1巻目にしか出てこないが、存在は全巻を通じて、最後までゲドを通じて感じられ、思い出される。

あまりにも浮かばれ無いヘグもこの「ブラフマンの埋葬」でようやくきちんとした扱いを受け、本当に良かったと、思った。

あまりにも甘い、あまりにも不注意な(うちのかみさんだったら普段は絶対しない様な)生き物に対する不注意、に怒って思わず老眼鏡を机に投げ捨てた。ふざけるな、と思わず声に出してしまった。

さっき読み終わったばかりで、いまでもふざけるな、と思ってしまう。

そこだけ物語の為に物語自体が目的になり、弱いものが押しつぶされている。

ヘグ、ブラフマン、、、誰か彼らの為にちゃんとした物語を書いて欲しい。

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