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日記                      

2021.12.22

 

2021冬至自分向けお楽しみ気ばらし企画:2021年アマプラの見放題映画の独断ランキング

1. ミッドサマー Midsommer (2019, Ari Aster)

2. サスペリア Suspiria (2018, Luca Guadagnino)

3. ムーンライト Moonlight (2016, Barry Jenkins)

4. ファーゴ Fargo (1996, Joel and Ethan Coen)

5. Mr. ホームズ Mr. Holms (2015, Bill Condon)

6. グリーンブック Green Book (2018, Peter Farrelly)

7. 恋はデジャヴ Groundhog Day (1993, Harold Ramis)

8. アンダー・ザ・シルバーレイク Under the Silver Lake (2018, David Robert Mitchell)

 

(安心してお勧めは5.6.7。 7.は有料 3.も無料期間終わったみたいです。8.は微妙www)

(本数観てる訳ではないので年末年始の気ばらしキッカケに、ならんかw 悪しからず)

 

2021.12.4

ミッドサマーについて昨日の日記に「この先ダニーはアメリカの現実世界で立ち直っていくのではないかと予想されます」と書いた事が何よりも自分が未だに「無理解さと想像力の貧しさ」しか無く「外注すれば大丈夫」という所に逃げてエラそうに涼しい顔で過ごしている事なんだと、さっき風呂の中で思いました。たかが映画の話、と言えばそれまでなのですが、一般に言われるフィクション / ノン・フィクションの区分けを超えてトランス・フィクションとでも言う様な内容の映画だと自分には思われます。設定等は映画という形のフィクションなのですが冒頭で起きる悲劇のインパクト;色んな映画では「物語の定型」に当てはめられて語られる事が多い、を安易に「過去形」で語らない様に必然的にグロテスクにならざるを得ない「トラウマ自体の苦痛の生命力」と呼べば良いのでしょうか、を可能な限りクローズアップして、それに従って物語るトランス・フィクショナルと言いたくなる様な映画だと思います。だから「ダニーは立ち直っていくのではないか」と昨日書いたのは自分も書いてて苦しくなって(映画だし)無意識的に楽観的見解に逃げたくなったのです。ダニー自身は辛くて辛くて敢えて言えば何一つ自分からコマンド出来ない程壊滅寸前なのだと今更(!)気付きました。最後に身に纏った花の一つ一つが全て痛々しくその下にどれ程の苦しみが隠されているのだろう、と想像すると、昨日エラそうに「この先ダニーはアメリカの現実世界で立ち直っていくのではないかと予想されます」書いた事がやはり自分という人間の影を浮き彫りにされた気がします。白夜の光が僕の影を浮き彫りにしたのかも知れません。

 

2021.12.3

 先日アマプラで 「Midsommar」 Dir. Ari Aster「ミッドサマー」アリ アスター監督という映画を観て以来、自分の見解を日記に書かなければならない気持ちが炭火の様に消えずにあり、同時に書いて何の意味がある?書きたくない常識的な気持ちと戦っていて、結局その葛藤が余りに気分が悪いので「気分の為だけに」自分勝手に書くことにしました。これはネタバレもあり、書く内容が斬新とかいう事ではなく、何処かで別の人が似た様なことを言っているかも知れません。自分は関連記事は全く読んでないのでわかりませんが、例えは汚いですが、自分の排便は他人は出来ないという事で、僕が自分の言葉で映画の印象を書くしか気分がスッキリしないのだと思います。

 自分にこの日記を書かせるだけのインパクトがミッドサマーにはあったのですが、それについて書くのに暫くブレーキをかけて来たものが、今になってわかりました。それは物語の冒頭で主人公のダニーという若い女性がアメリカで受ける傷-トラウマの吐き気を催すほどの凄まじさ、に対する僕自身の無理解さと想像力の貧しさ、です。そして実はそれこそがこの映画で一番テーマになっている事で、その「普通の日常」の持つナルシスティックな冷たい無理解の影を全てを照らし出す真昼だけの世界、白夜の北欧コミューンに移動して、可能な限りグロテスクに拡大する事で「解らせ、感じさせ、体験させる」物です。

 前半アメリカが舞台のシーンは、暗く、寒く、夜のイメージが強いのですが、そこでの話のバランス感は悲劇の渦中に居るダニーが余りにもスッと小康状態へと、日常生活へと適応しているかのように、少し落ち着き無く、足早に、スライドする様に語られていきます。その感覚は自宅のバスルームに入ったらそのままスウェーデン行きの飛行機のバスルームに繋がっているという描写に受け継がれていると感じます。またダニー以外の同行者は全て男性で、ペレ(スウェーデンへの導者)以外、ボーイフレンドも含めて皆、自分達の事(博士論文の内容、云々)にばかり夢中です。そもそもダニーはこの旅の計画を成り行きで知ったのであって、裏では少々煙ったがられつつ、お荷物として参加したのでした。

 仮に、この夢の様な物語に於いては、ボーイフレンドと彼の友達も全てダニーの心の中の存在、無意識の中に居る人格の投影、と捉えると、面倒な事(トラウマ)は専門家(セラピスト)に任せて、さっさと社会的な日常生活(博士論文云々)にスッと戻って、みんなと同じ様に楽しく生活がしたい、という本人の感じている焦燥感の人格化の様にも感じます。

 ところがその、男性達の中にスウェーデンのコミューンから来た留学生のペレという導者が混じっています。皆と同じ様な年恰好をしていますが、台詞や行動からダニーに対して特別な視点を持っているのが判ります。彼女がコミューンの衣装を着た絵を描いて誕生日に手渡したりします。そういえばミッドサマーの夏至の祭りがダニーの誕生日と重なるのも興味深いです。導者という言い方をしましたが、ダニーの悪夢が用意したダニーの心の導者と考えれば、彼はダニーが「ギリギリ」耐えられそうな形で、共同体の儀式を通じて「起こってしまった惨事(とそれを含む世界)」を自分の体験として取り込み「何らかの形」にする方向へと導きます。が、あくまでもギリギリの自己完結のディフェンスであって、それは最後の「綺麗な花束で身動きが取れないほどぎちぎちに全身が覆い尽くされて泣き笑う」姿に見事に象徴されています。当然ハッピーエンドや解決からは程遠くて、あくまでも最初の心の崩壊に比較した場合、無意識内の何者か(ペレ)がセルフケアシステムとしてギリギリの形状を心に暫定的に与えたのかも知れません。

 少しずれますがアメリカだろうがスウェーデンだろうが日本だろうが、個人にとって想像もつかない様な耐えられない出来事は起こり得るし、なぜ起こるのか普遍的にはわかりません。あくまでも目に見え易い、お金や物に置き換えた日常世界ばかり偏重し、傷付いた心、病んだ体、性や生や死のゴチャゴチャグチャグチャした厄介な危険は専門家に外注すれば大丈夫、と思い込んでいる、ダニーのボーイフレンド達に投影されている様な、少し思い上がって涼しい顔をした架空現実、があるとすれば、この映画は「外注すれば大丈夫」という根拠の分からない経済社会の思い上がった幻想の顔をハンマーで叩き潰す伏線もあると思いました。

 話の本筋に戻ると、素人の自分は、最後の、綺麗な花束に全身ギチギチに包まれて身動きが取れない状態、がスタート地点で、ここからセラピストはダニーを解放する手助けをしていくのではないかと思いました「家へ帰る事は出来ない、ここがお前の家だから、ここがどこであれ、ここからセラピーが始まる」と言った感じでしょうか。僕はこれは全てダニーの夢で本当はスウェーデンに行っていないと思っています。彼女が恐らくボーイフレンドと暮らしているであろうベッドルームの壁に大きなクマの絵が掛かっているのもそう思わせる理由の一つです。そして僕がこの映画で一番凄いと思ったのは何よりも高純度の「悪夢感」でした。実際に行ったのか、よりも悪夢の中でスウェーデンに行ったと思わせるような迫力を感じます。またペレに現されるセルフケアシステムも実はダニーを立ち直る方向に導いていて、この先ダニーはアメリカの現実世界で立ち直っていくのではないかと予想されます。ここでもし他に実際ある様な破壊的なセルフケアシステムだったら映画にはならなかったでしょう。あくまでもこれは映画なのだと思います。

 実はこの映画を観た時、Donald Kalsched というユング心理学の精神分析家の書いた「The Inner World of Trauma」という本を偶然読んでいて、自分の中でトラウマとルフケアシステムと呼ばれる無意識の働きについての説明が映画と符合する部分があり、気持ちを整理する上で大変参考になりました。

 冒頭に書いた通りあくまで僕個人の気分がスッキリする為に書きました。それ以上のものではありませんが、面白がってもらえたら嬉しいです。

 

 

2021.8.30

まるで挽肉グラインダが突如雑踏の中に出現した様

それが自分だけにしか見えないの

挽肉グラインダは物の形を無くしてしまう

形を無くしたものはいろんな物の形をとれる

突如シェイプシフタが目の前に立っている

僕らは本物と寸分違わぬ人間なのかも知れない

限界

僕は本物と寸分違わぬ人間

僕はシェイプシフタ

僕は形が無い

僕は挽肉グラインダ

僕は突如雑踏の中に出現した僕自身の知らなかった顔から逃げた

知りたくなかった顔から

 

 

20021.8.26

【8/26追伸;感染拡大の現状を考慮して8/31のライブは中止することにしました。全力で準備してきており、負け感も強いのですが、この状況下ではお店とも相談の上で最善と判断させていただきます。ご迷惑おかけしますが何卒ご理解のご理解の程、どうぞよろしくお願い致します】

ー蛯子健太郎(Library)

 

2021.8.18.

 もしも僕が正義の味方だったら、こんな風になってみたいな、というオーラを放つ人をつい先日見つけて、本も出版されてて途中まで読んだら面白くて、すごいなぁ、よくこんな鋭い事が明解に言えるな、と感心して心が「ホワ〜ン」と持ってかれている真っ最中に心のどこか暗くて遠い所で赤色灯がポッと点いて、微かな警報が小さい音で鳴り始め、段々と音量が上がっていく。「あ」と気付いたらその「本当の」正義の味方の人が「本当の正義」についてとても見事に語っているうちにあっと言う間に「正義の味方という物」は果てしなく伝染するという事がよく分かった。「ホワ〜ン」と心が心地良く響く「現象」を起こしてるのは読んでる僕だけじゃなくって書いてるその人も「ホワ〜ン」と現象を起こしている。「はっ」と我に返ってみるとその人が「ツイッターはもう堕ちた、ウンザリしているのでさようなら」と気持ちを表明しているそのツイートが余程ツイッターらしい雰囲気を何より感じさせる。僕には想像もつかない様な経験や資をその人は持っていてそして愛を持って結局は「教えたがる」。その中には僕個人の問題に触れる部分が沢山あって面白いのだけれど、書いている当人はとても特殊な正義の立場に居れる人で、わからないことは正直に「解決はわかりません」と言えば事が済む非当事者なので「ホワ〜ン」と響く現象以上の事は共有できないのかも知れない。この文章自体も「正義の味方」についての伝染してしまう文章だと思う。そんな自分の支えになっているのはうろ覚えだけど、或る人の「自分自身をよく知る事が何よりの社会貢献になる」といった内容の言葉。つい何かを足したくなるけど、何を足してもマイナスになってしまう言葉に感じる。

 この文章とは直接は関係ないですが8/31にライブラリのライブがあります。

2021/8/31 Tue. @YOKOHAMA JAZZ FIRST

物語をキーワードに作曲したオリジナルジャズをお届けします。

ジャズユニット・ライブラリ

蛯子健太郎エレクトリック・ベース 杉山美樹ピアノ

 

2021.8.13.

 最近はこの日記、書きたくても書けない状況が続いていた。理由は様々な手掛かりが一気に見えてきたと言う事。漠然とした言い方しか出来なくて申し訳ないけど、手掛かりの内容がこのホムペの日記コーナーに収まる範囲を超えているのかも知れない。本当にいろんなことが見えてきたけど、見えてきたものは報告書の様には書けない。そんな状況をかなり無理矢理報告します。

 と、いったん断わっておいて、敢えてその中のコロナ禍による影響も考えてみる。すぐにわかるけど影響がない訳が無いよね。特に音楽を通じて他人と会うということが減ったおかげでその分自分の内側へ深く降りて行く機会が増えたことが影響している。これについては現在は良い悪い分からなくて、ただ運命的なものは感じている。とりあえずそんな感じです。あと8/31のライブはやる方向で音楽はしっかりと備えています。コロナ感染の状況があまり良くないですが、とりあえずそんな感じです。

2021/8/31 Tue. @YOKOHAMA JAZZ FIRST

物語をキーワードに作曲したオリジナルジャズをお届けします。

ジャズユニット・ライブラリ

蛯子健太郎エレクトリック・ベース 杉山美樹ピアノ

 

2021.7.8.

前回の日記で言ってた新曲は「レイニー清原」となった。先日6/19のライブでも演奏して、気に入っている。普段自分はスポーツを観ないので、現実の野球選手だった清原さんに関して殆ど知識が無いんだけど、限られた知識なりに、怪物的に凄い選手で、ドラッグの問題を起こして闇を味わった方、という印象を持っている。先日の夢の中ではそんな光も闇も体現する清原が雨の中、地面にバスケットボールを叩きつけ、黙々とゴールの練習を続ける姿が力強かった。ただそれだけ。

 曲は少しユーモラスかも知れない、決して格好良くは無い、大きな工夫も無い、結局なんにも無い、黙々と同じ動作が続く、同じ動作が黙々と続く。ただそれだけ。そんな曲が作った本人の励みになっている。

 

 

8月31曜日にライブラリのライブをYOKOHAMA JAZZ FIRSTでやります。

物語をキーワードに作曲したオリジナルジャズデュオです。

来ないよりも絶対に来た方が良いライブにと思って準備してます。是非お越しください。

ジャズユニット・ライブラリ

蛯子健太郎エレクトリック・ベース 杉山美樹ピアノ

2021/8/31 Tue. @YOKOHAMA JAZZ FIRST

 

2021.6.12

 普段だったらまずやらない事を今日はした。寝ている間に夢を見て、その夢の中で音楽が鳴っていて、それを目が覚めても覚えていたとしても、経験上、自分の場合でも他の人の場合でも、余りに面白がり過ぎると良い事はないと思う。夢のお告げ、だの、サインだのやたらと興奮したり、そこまで行かなくても、あまりパッとしない日常生活におけるちょっとした良い事、の様に感じて「あまりよろこばないほうがいい」。個人的な経験上、夢の中で出て来たからといって時が経って、頭が冷えてくると、大した事なかったな、と後々気付く。目が覚めてる時にウンウン唸りながら書いたものと大差ないと言うより、そっちの方がまだ良かったりもする。「夢に出て来た」と浮かれてるのは本人だけだったりする。

 以上のことを踏まえた上で、今日は夢で出て来たベースラインを元に作曲をした。JR藤沢駅の近くに交通量の少ない車道があって、近所の子供も遊びやすくなっている。そこにバスケットボールのゴールが設置されていて、元プロ野球選手の清原が一人黙々とシュートの練習を小雨の降る中している、と言う夢。内容はもっとあって他の登場人物も居るんだけどここでは省略。

 良いか悪いかはともかく、この場の勢いの様な物があって、夢で自分が居た情景の中に突っ込んで行こう、と思って書き記した。取り立てて面白い夢でも無いけど、他のやる事を後回しにして書き記した。普段だったらまずやらないけど。そういえば先日は音が会いに来て、今日は曲が会いに来た。リハをして6/19土曜日のライブで演奏するかもしれない(やらないかもしれない)。曲を書いたらいつもはもっと詰めてから人前で演奏するのに、やはりこの場の勢いの様なものを感じる。それでこの日記も書いている。こう言ってはなんだけど良くても悪くても大切なのだろう。

告知です:6月19土曜日にライブラリのライブを渋谷道玄坂KOKOでやります。

物語をキーワードに作曲したオリジナルジャズデュオです。

来ないよりも絶対に来た方が良いライブにと思って準備してます。是非お越しください。

 

ジャズユニット・ライブラリ

蛯子健太郎エレクトリック・ベース 杉山美樹ピアノ

2021/6/19 Sat. @渋谷道玄坂koko

 

2021.6.3

基本的に前回の日記から同じ延長線にいる。そして考えてみると前回の日記は前々回の延長線にいる。そこにも書いた様に偶然の様に音が会いに来た、それまで出来ないだろうと心の何処かで諦めていた部分が急に噛み合い始めた。急に、と言うのは出来事としてだけ見たら急なんだけど、何年も前から諦めも含めてごく自然に、半ば無意識的に求めて来たのだという事がわかる。他人から見てあまり大した事のないエレクトリック・ベースの音色とレスポンスの事なんだけど、それがカタンと噛み合い始めたら表現のストレスがそれまでいかに多かったか身にしみる。そして新たな不安と孤独感が付随する様に挨拶をする。確かに、なぜ自分はもっとちゃんとした大人にならなかったのだろう?ふーんこれが「やりたかったこと」なんだ、なんでこんなに「繋がってない」のに更に一人の方へ向かってるのか?最後の質問は前回の日記が答えとなっている。

 或る人は孤独の中に放り込まれた。選んだわけでは無く、少しずつそこへ流されていった。そしてその流れは、やはり少しずつ物事を変容させる。それを正確に予測することは神様でもない限り不可能だろう。そして或る人は自分が何かの尻尾を掴んでいる事が明らかになる。どうやら今までずっと掴んできた、尻尾は既に手と一体化している。自由に掴んだり離したりできるわけでは無さそうだ。尻尾の動物が何かも見えないし解らない。ただ孤独に流された中で自分がしがみつけるのはこの尻尾だけだ。孤独の中で動物は体温を感じさせる。或る人はその動物の大きさと息遣い、力強さを感じる。

 

2021.5.26

 正しい道が楽とは限らない、と言うと当たり前なのに古びて響く。古びて響くのはいいとして、正しい道が正しいと感じられるとは限らないし、故に正しいかどうかなんてわからない。思うに、独りで何かやるってそう言うことなんだな。実はさっき色々書いて削除した。削除の内容は冒頭の古びて響く、を掘り下げようとしたのだけれど、本当はそんな事書きたいのじゃなかった。書くまで気づかなかったけど。最近知人の近況を聞き、人が孤独の中、独りで居る事について考えさせられる事があった。自ら選んだわけではない、孤独と恐怖、その中でしかしがみつけないもの、それがその人の道になりつつある。

 

2021.5.15

ふわふわそわそわしている。音の方から会いに来た。率直に言葉にするとそんな感じ。頭で考えて音色を作ってきた。それが何年か続いてふと力が抜けた様になったら音の方から会いに来た。ちっちゃな事だ、周りから見て本当にちっちゃな事だけど、そして自分でもそう言い聞かせてるけど、取り憑かれてもいると思う。他の物事に比べてアンバランスに振り回されてる。これが本当の自分?なのか?「こんな些細なこと」が本当の自分?

臆病者が無い勇気を使って言うけど、そうらしい。考える様なことじゃないのはわかってる。でも考えなくてもアンバランスになってそわそわする。仕方ないから抵抗はあきらめよう。これは愚痴だけどもっとちゃんとした大人になりたかった。

 

2021.5.10

 自分も含めて大抵の人は不安な気持ちを抱えつつ、それを日常化する為に足場の様なものを必要としている。例えば地震や台風などの天災は本当に怖いけど、怖がってばかりいると普通に生活が出来なくなるので、おまじないの様なもので不安な気持ちを小さくする。おまじないというのは変な言葉遣いかも知れないけど最近の自分の例では冷蔵庫を地震に備えてストラップで壁に固定したりする様な事だ。そんな事しても実際には気休めにしかならないかも知れないがまさに「気休め」にはなるのだ。勿論気休め以上に役立つかも知れないけど日常生活においては冷蔵庫ストラップの実効性よりも気休めの方が与える影響が大きい。そう考えてみると冷蔵庫の話だけでなく、実はもっと細かいレベルで「おまじない」が日常生活にはちりばめられている。それを習慣と呼んでも良い。一見無意味にも見える日常の習慣は不安な気持ちをダウンサイズするおまじないの役割をしている。

 ここから本題なんだけど生活習慣病ならぬ「習慣生活」の落とし穴がある。不安に対するおまじないの習慣の維持が知らず知らずのうちに生活の目的になって行く閉塞的なサイクルで、自分が長年はまっていた様だ。不安は自然の一部だとすると、それ自体は人間の善悪を超越した存在と繋がっている。それを小さく感じさせる作業が目的化すると本人はだんだんと臆病になる。そして不安も含めた自分自身を部分的にしか生きれなくなってしまう。

 そんな事に気付いたので古い足場が崩れかかっている。そして自分の臆病さに身動きが取れず、暗闇の中で耳を澄ます。

 

2021.5.2

 昨年の緊急非常事態宣言以来よく瞑想をしている。瞑想といってもただ眼をつむって椅子に座っているだけ。タイマーを20分かけておくのは、眼をつむってるからタイマーが無いといつまでもそのままで居かね無いから(一度タイマーかけたと勘違いしてずっと座ってたことがある)。ただそれだけなんだけど自分には昼寝より効果があると感じられる。心に何の規制もかけずに善悪も関係なく、集中してもボーッとしてもどっちでも良く、楽な姿勢で眼をつむって20分。うたた寝もOK。だけどうたた寝しないほうが気持ち良いし、スッキリする。心の掃除。睡眠とは違う休まり方。自分の心の為「だけ」に「意識的」に時間を使うのが良いのかな。

 昨夜、雨と雷の音を聞きながら瞑想してたらキャンプの思い出がよみがえって来た。11年アメリカに住んでいた期間、休みのたびにキャンプに出かけた。テントと寝袋と調理道具を車に積んで比較的整備の行き届いたキャンプ場に行く。今にして思うとアメリカの自然は素晴らしく、お金の無い僕と妻、時にはそれに友達も参加した。瞑想してたらそれがどれほど素晴らしい事だったか、人気の無い山道で、高山病でバテて休んでる時に容赦無く吹いていた冷たい風、そのびゅうびゅう吹く風の中、スナック菓子を狙って近づいて来る小さい鳥や小さいリスの「こんな風当たり前」という圧倒的強さ。

アメリカに暮らした11年間、音楽とキャンプとどちらが得るもの大きかったろう?

 

2021.4.29

全く書く気が無い時に何かを無理やり書くとやっぱり後悔する様な事を書くのだろうか?それは酔っ払ってSNS書くと後悔する、と多くの人が言ってるのと似てるのかもしれない。自分も10年前に酔っ払ってSNSに色々書いて次の日削除したことがあるからそれはよく分かる。今ではお酒は飲まないのでいつもシラフなんだけど、それでわけのわからん事書いたりする事もあるから。仮に擬人化するとしたらお酒に酔ってる人にとってのSNSって一体誰なんだろう?絵に描くとどんな顔してるんだろう?僕の脳裏に浮かんだのは真っ黒い煙で出来たトランプのババみたいなメフィストフェレス。そう思うとファウストのメフィストフェレスと酔っ払いのSNSの関係ってかなり似てるかもしれない。

後、さっきから気付いてるのは何か書きたい事がある、書いておこうと思って書いて後悔した事だって、そういえば沢山ある。ただ酔っ払いの話でいくとやはり後悔の質が違って、自分の場合、酔ってない時の文章に対する後悔は正直な自分のうんざりする様な部分に対する自己嫌悪なのに対して酔ってる時はメフィストフェレスに乗せられた、かの様な自分の外にある物=酒との取引を後悔する面が強い。

実はこの文章は実験のつもりで書き始めた。全く書く気が無い時に書き始めるとどうなるか?って書いてあるけど実は自分に対する表向きの言い訳で、ただ自分の気分を少しでもほぐして心に流れみたいな物が欲しくて書き始めた。でもなんでそれをわざわざホムペで公開するのか?実は酔っ払いのエピソードはメフィストフェレスを小さく見せる無意味なディフェンスで、本当のメフィストフェレスはシラフで後悔したとしても公開させる誘惑だと思う。誘惑って言うと悪いものみたいだけど、一見悪く見えるものが(未完)

 

2021.4.24

情けないと言う感情について自分なりに書きたくて辞書で調べたら思いの外意味が広くて、困ったけど、今取り上げる「情けない」は「みじめ」のニュアンスが近い。大した事が言いたいのではなく「気付いたら自分自身が情け無いの権威になってしまった様に感じる」と言う話。

振り返ってみれば1999年末に帰国して以来、失敗しかして来なかったのかもしれない。恐らくほとんどの人間関係で、もう少し細かく言うと80パーセントの人間関係で破綻をきたして来たと思う。ここで残りの20パーセントは何か?と考えた途端に実は10パーセントにも満たない様な気がしてくる。勿論本人の意に反して、そしてそれほどドラマティックで無い事が殆どだけど、90パーセントは暗い夜の海に消えたみたいに感じる。

自分はやっぱり色々な課題に向き合うどころか、気付いてすらいなかったんだなと思う。自分で言うのは恥ずかしくて情け無いけど、やはり相当問題ある。これが小説だったらまだ良かった、と言うかそうだったらずっと良かった。

振り返ってみれば、本人の意に反して、と言うのは思い込みで、自分を勘違いしてたのかもしれないし、未だに勘違いしてるのかもしれない。

 

2021.4.21

最近立て続けに思う事がある。「まんが日本昔ばなし」のファンなのだけど、正直爺さんが偶然落ちた山中の洞穴で異界の使者(ネズミ等)から思いもかけず素晴らしい宝物を受け取って喜びました。それを隣の欲張り爺さんが壁の向こうで立ち聞きして、大抵の場合、正直爺さんより効率良く、何倍ものお宝をネズミから受け取ろうと準備万端で山中のネズミ穴に(ズカズカ)入っていって肝心な点をなおざりにして大失敗をしてしまいました。というテーマとその変型が様々な昔話で繰り返し語られる。

 実は正直爺さんと欲張り爺さんは同一人物で、1回目、2回目、の典型的な違いが描かれているのではないか?と以前SNSに呟いた事がある。

 最近立て続けに思うことは、そこから更に進んで、2回目の難しさ、程度の事を言ってるんじゃなくて「いかに2回目が不可能か」を繰り返し繰り返し、いろんな地方のいろんな昔話で警鐘の様に語っている様に思えるという事。思わず素晴らしい宝を受け取った正直者が、その宝のせいで欲張りになって最後は身を滅ぼす昔話も(くどい位)沢山あるのも、テーマとして時空を超えてサイレンを鳴らしてる様な気がする。

 何のサイレンか?そこが一番感情を動かされるところだけど、最近立て続けに思うのは、自分を欺く事を避けるのはアクロバティックに難しい。心の中の静かに思える場所で、涼しい顔で、天才的に巧妙に、しかも日常的に歯車がカタンと動く。それは影のようなものだから。

 

2021.4.17

 今日は雨だ。昼なのに薄暗い。妻は実家に出かけている。自分は今から晩御飯の余り物を食べるだろう。蕪の葉っぱの餃子と蕪の味噌汁、小豆の入ったお粥。

 今朝出がけに珍しく妻が昨夜見た夢の話をしていた。夢の中で夢を見ていて夢の中でその夢から目が覚めた、という夢らしい。夢の中では死んだ人が会いにきていて、それが夢だと夢の中で目覚める夢だった。

今こうして書いてみると自分にはその夢の入れ子構造が何となく響く。死んだ人がそのより内側の層に会いにきてるという事も。その事自体が入れ子構造をもたらしたのかな?

 実は僕も夢を見た。音楽家として恥ずかしい夢で、細かい意味は解らないとして、自分の曲が自分の物になっていない、という夢。現実に取り組んでいる問題なので身も蓋もないです。

 

 

2021.4.15

書かないで日々をやり過ごすのは楽チンだ。自分が以前書いた日記を読み返すと面白くもあるが、恥ずかしくもある。読み返したばかりの面白さを期待して読み進めるうちに期待が自画自賛と気づき恥ずかしさが上回る。批判的な観点は自我の劣等感の裏返しで、自画自賛っていう一見ストイックな向上心っぽい言葉を自分で自分に言い聞かせてるんだからナルシスティックな脆さの無意識の発作だ。

いいじゃん別に、恐らく恥ずかしがらせている自分自身の恥ずかしい部分でいいんじゃないの?こういうのって癖って言ってもいい。癖っていうのは自律神経みたいに自我の範疇外で出来る輪っかループだ。自分で気付かない発作と同じだ。良いのか悪いのかは関係無いでしょう。良い悪いがあまりに意識に浸透している。正解を求める流れが大きすぎる。ただナルシスティックなのは自分が嫌だ。というかナルシスティックに起こる心の発作と思うと馬鹿らしくなってくる。納得できない苦しさでもある。書いたり作ったりする人はここら辺が一捻りあるからややこしいんだろうな。

さらに滑稽なのは僕が仕事でも何でもなくただ1人でこうして書いてるだけだ、というシチュエーション。この自分に対しての揚げ足の取り方にしてもナルシスティックな傾向かも。ぶつかって行こう。

この僕のアウトプットであり繋がりは6月19日ライブラリのライブです。ちゃんとアウトプット出来るように、それだけが希望かも。

 ジャズユニット・ライブラリ

蛯子健太郎エレクトリック・ベース 杉山美樹ピアノ

2021/6/19 Sat. @渋谷道玄坂koko

 

 

2021.4.8

 思うにもし、世の中に「嫌だな」と言う様な物/者があるとすれば、それら彼女らと同じ戦い方をしてはいけない。同じ戦い方をする事で嫌なそれら彼女らと同じになっている。又、わかりやすい勝ち方をしてはいけない。それはサイドが入れ替わってるだけで同じ事の繰り返しだから。

と、自分は3月23日に手帳に書いてます。思うにこの1年程SNSのタイムラインをずっと眺めてて自分なりにそうう風に感じる様になったんでしょう。

 

 告知です:6月19土曜日にライブラリのライブを渋谷道玄坂KOKOでやります。

物語をキーワードに作曲したオリジナルジャズデュオです。

来ないよりも絶対に来た方が良いライブにと思って準備してます。是非お越しください。

 

ジャズユニット・ライブラリ

蛯子健太郎エレクトリック・ベース 杉山美樹ピアノ

2021/6/19 Sat. @渋谷道玄坂koko

 

 

 

2020.12.7

 「トンネルからのお知らせ2」

 つい「自由とは正解をたくさん知っている事」と思ってしまいがちです。

でも最近は「自由と正解は全く何の関係もない」と思い始めています。

そう思い始めると「自由」と言う言葉が耳慣れない外国語の様に思えてきます。

アイスクリームの種類を選ぶ様なたぐいの「自由」は日常にたくさんあるのですが。

「自由」は思えば芸術の核にあるものなんじゃないかな?

 

 ところで来年2021年3月13土曜日に9月以来のライブラリのライブを渋谷道玄坂KOKOでやります。

全曲オリジナルで、物語をキーワードに作曲しました。

ピアノの杉山美樹さんとのデュオという形になってから初めての曲もやります。

とても良いライブになると思って準備してます。是非お越しください。

 

 「ジャズユニット・ライブラリ

蛯子健太郎エレクトリック・ベース 杉山美樹ピアノ

2021/3/13 Sat. @渋谷道玄坂koko

詳細は追ってお知らせいたします。

 

 

 

2020.11.1

「トンネルからのお知らせ」

 嘘つかないで音楽できたら良いと思います。

良いというのは幸せだと思います。

自分に嘘つかないのは思いの外迷路のようです。

 

 

2020.10.5

「光のはやさで」

 「スクリーンを開いているかぎり、光のはやさで自分の核心から遠ざかってる」のでスクリーンを眺める時間を減らしてより充実した日々を過ごしています。

 

 

2020.9.3

「深まるという事」

 「深まる」の「深」という文字の持つ下に向かう地中や海中を下降するイメージと、実際に何かが深まるという時に起きる現象とは余り関係が無い様に思えてきました。どちらかと言うと下、上、前、奥、右、左、と言う「計りのメモリ」自体がボンヤリしてくる、もっと極端に言えば消滅すると言った事の様に思えるからです。それは「下がる」のとは全然違います。言葉が違うのかも知れませんね。英語のdeepも「深」ですし。

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