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目に見えない迷路の中を、迷うのではなく、正確に辿っていると、不思議と自由を感じる。Library - original jazz band official site

 日記                   

 

 

 

2016.9.9

 

自分とほぼシンクロしている自分の中の自分に少しでも落ち着いて会いに行った」

 

昨日は休みで「1時間断水になる」と断水になる直前に家の前の下水工事の人に告げられたので、1時間でも手が洗えなくなるのが嫌になり、地元のスタバに車で行く事にした。

 

運転しながら「(手が洗えなくなる程度で)自分は何をやってるんだろう?」と考えると「スタバで本を読む事で自分の中の自分に少しでも落ち着いて会おうとしているんだ」と気付いた。

 

思えば、現実に運転していると同時に意識の中でも運転しているわけで(じゃないと事故ってしまいます)、何だか自分の内部と外部がほぼシンクロして同時進行してるかのような、奇妙な感覚に囚われ始めた。

 

スタバでコーヒーを飲みながら、確かに自分は自分とほぼシンクロしている自分の中の自分に少しでも落ち着いて会いに来たんだ、と実感したし、周囲の席に座っている全然知らない男女も、そこに居つつも、同時に彼彼女等は自分の中の何処かにもちゃんと存在している様に感じられた。

 

自我、という事を言い出せば、それはある程度自由に自分の身体を動かしたり、しばらくの間息を止めたりする事はできる。だけど、存在、という事を言えば、心は一体どう存在しているんだろう?石垣みたいな境目があるのだろうか? 全く関係無い様に見える機械だって心の中に存在していて、自我との距離によって、例えば家の前の下水工事のパワーシャベルだって自分と、ユンボを動かせる現場の人では存在の仕方が違うのだろう、機械だって結局は心から来たんだから。結婚だって全く不思議に思える。そもそも心の中には無数の男女が実在していて、その中の数人かが、ただ道ですれ違ったり、友達になったり、遠い世界の偉い人だったり、両親だったり、全く知らない人だったり(知らない事は存在しない事にはならない)。

 

運命とか、死とか、時間とか、断水とか、猫って存在自体が天才かも。

 

この夏に読んだ「スローターハウス5」と「一九八四年」も響いていて、絶妙な2冊でした。

 

奇妙な感覚が持続しつつ。

 

2016.9.5

 

「愚行」

 

 

「入口」

 

はいつも「過去」にあり、

 

「未来」

 

は「現在」にある。

 

「過去」を欲望する事は愚かだ、

 

それは自分自身以外のものを欲望する事。

 

「改良」という愚行 

 

「未知」という希望。

 

 

2016.8.23

 

「いいことであっても」

 

たとえ良い事であっても、伝えられない事であれば、伝えようと無理せずに多少の孤独に耐えた方が良いです。

 

最近良い事があったのですが。

 

少なくとも多少の孤独に耐えるしかない、という事は理解できていてるので、カオスも小さくて済みます。

 

それよりもそれに見合った新たな「しるし」が必要になります(それも理解できてて良かったです)。

 

現在そこまでで、「しるし」が見つかっていません。

 

なんだかちょっとバカみたいですが、こうして書き記せばで後で確認もできます。

 

要は伝えるのが困難な個人的な新しい視点に見合った個人的な「しるし」を見つける事、あるいは作る事。

 

近いうちにそれを見つけるか、作るかする必要を感じてます。

 

さもないと伝わらない孤独が徐々にキツくなって何もかも忘れてしまうでしょう。

 

新しい何かを始める必要があるのかもしれません。

 

 

 

2016.8.9

 

「時間の先端について」

 

時間の先端について、

 

それは無意味に思える、

 

なぜなら意味は過去に属している、

 

そして死に接近する、

 

なぜなら意味は死を語るには舌足らずだから、

 

それは儀式という、(軽く捨て去られた)創造を喚起する、

 

意味は過去に属している(たとえそれが未来的に見えていても)、

 

時間の流れそのものに接近する時、

 

人はものがたりはじめる、

 

そして聴くという行為が物語を生成する、

 

時間の先端は現在と同義語である、

 

今、物語る、

 

無意味さに、耳を向ける、

 

 

 

2016.7.2

 

「人間について」

 

先の事を考えてるつもりでも過去の事を考えている。

 

今の事を考えているつもりでも過去の事を考えている。

 

今を生きるのが少し下手な動物、それが人間。

 

 

 

2016.6.11

 

「近況」

 

次の曲を書くまで次回のブッキングはしない。

 

前回昨年10.月19日の「ライブラリ」ライブを終えた直後から、そう決めて日々を過ごしてきました。

 

現在2曲書き終え、もう一曲昔書いた曲のアレンジをしています。

 

一曲目を書いている最中にもう一曲書きたくなり、

 

二曲目を書き終わってもブッキングする事に関して、腑に落ちませんでした。

 

そうこうしているうちに半年以上が過ぎ、

 

「ライブラリ」が自分にとって如何に中心的で大切なバンドであるか、気付かされています。

 

この様な歩みの一歩一歩が「腑に落ちる」ので、腑に落ちない事が以前より見え、

 

自分が何者なのか、以前は見えなかった事に気付きます。

 

こういうのを産みの苦しみ、と言うのでしょうか?

 

よくわかりませんが、苦しみに耐えられる様になった分だけ、自分自身に接近できる様です。

 

そしてその分月日は流れて、歳をとり、歳をとった分だけ、抜き差しならない、

 

苦しみも含めた新たな世界が一続きに展開して行くようです。

 

愛とはいろんなものをつなぎとめるのかもしれません。

 

いつかは壊れ、引き裂かれ、遠い世界に旅立ってしまう事は避けられないにしても、

 

それまでの間、つないで、守り、繭の様に変容させる。

 

その限られた期間を我々は動物としてお祝いし、

 

いっときでも個性という印画紙に捉え、クローズアップして確認する。

 

物語の生成を感じつつ。

 

 

 

2016.5.22

 

「やるべきこと」

 

今朝感じた事ですが、

自分がやるべき事をきっちりやる事、が何よりも大切だと思います。

それが他の人に言われた事だろうと、誰にも頼まれていない事だろうと。

自分がやるべき事がわからないのであれば、それが何なのか、どうしてわからないのか、焦らずに、探す手段を講じる必要があると思います。

焦って、何も考えずに、自分を乱暴に扱い続けると、その代償は思わぬ形になると思います。

 

自分がやるべき事をきっちりやっても:

孤独で無くなるわけでは無いかもしれませんし、更に孤独になるかもしれません。

お金が稼げるわけでは無いかもしれませんし、逆に不安になるかもしれません。

今まで書いてきた事の間逆に周囲や自分自身が「自分のやるべき事なんてわかって無いんじゃ無いか?」とギリギリの気持ちになったりします。

 

でも。「その事を行う行為そのものによって、理屈では無く、自分がやるべき事を今やってる」と確信できます。それを行わない限り、それについて何時間考えても確信は得られません。そしてその行為は世界を動かしていくのだと思います。大げさに聞こえますが、多少なりとも自分自身に納得できたら、その1日は少しだけ特別になります。

 

ので、自分がやるべき事をきっちりやる事、が何よりも大切だと思います。

理屈では無い、というところがとても難しいのだと思います。

 

そんな事を今朝、やるべき事をやりつつ、感じました。

 

 

2016.5.9

 

「バランス」

 

今はバランスが重要。動きたくても動かず、じっとバランスを維持する。その事が他の部分を活性化していく。虚栄心や不安や焦りに翻弄されて今までなら流れの兆候が見えるやいなや飛び込んできた。結果自分が流れに流され、平行移動してしまい、流れが判らなくなってしまう。場所が変わる事は広さではなく、深淵に呑まれる事は深さではない。飛び込んだり沈んだりしないで、じっとして、バランスを保つ。足元に流れを感じつつ。

 

 

 

2016.4.27

 

「とりとめもない」

 

半年間、自然な流れ、を自分なりに大切にした結果、先日から漸く曲を(音符を)書き始めました。

何と言っても作業自体の持つ、独特の「吸引力」をすっかり忘れていて、あっという間に時計の短い針が45度動いている。「え、まだこれしかしていないのに?」という感じです。

 

この半年間ぎっくり腰になってしまいました。まだ治療中だし、一体どういう意味があるのだろう?

 

ポップミュージックはコミュニケーションの形態だと思ってたら、どんどんマニピュレーション(感情操作)の道具になりつつありますね。

もともとポップミュージックには「コミュニケーション:マニピュレーション」がある程度のバランスの下に役割を果たしてきたと思います。コミュニケーションは様々な内容に開かれてますが、マニピュレーションは、この場合、市場原理の為に強引に、あるいは巧みに、誘導する「広告」的な要素だと思います。最近はどうやら音楽が広告に乗っ取られている。

 

以前知り合いが、縁日で「フライ」と書いたある屋台で「これ、なんのフライですか?」と訊いたところ「お兄ちゃん、食べてみればわかるよ」と言われ、買ってみたら中身の無いただの衣のフライで、正に「フライ」に偽り無しだった、という話を思い出しました。

 

 

 

2016.3.29

 

「3/29夢:」

 

自分ともう1人は教師で、大勢の生徒を連れてバスで旅をしている。

校内で何かの「変化」が起こり、その変化に対抗して我々はそこから逃れている。

映画の「スタンドバイミー」の様な雰囲気があり、同行している教師はリバー・フェニックスの様な気がする。自分はもう1人のなよっとした主人公役なのかもしれない。

変化は「言葉」に関するもので、空気感染するウイルスの様に、表面上は普通でも校長や他のスタッフ、生徒達が「変化」してしまった。

バスに乗っている他のスタッフが「表面上」は同じふりをして校舎に近付くが捕まってしまう。同様にR.フェニックスも捕まり、自分も捕まる。

R.フェニックスはギロチンで斬首される。自分もギロチン台に固定されるが、刃の代わりに熱した油を大量に上からかけられて殺される。

 

2016.2.23

 

「興味深い事実」

 

これを読まれる方は既に耳にタコができているかもしれませんがチャーリー・ヘイデンのレッスンで最も自分に影響を与えたものは「あなたの物語を語りなさい」ともう一つ「より良い音楽を作る為に、少しでも良い人間になるように精進しなければならない」です。

 

今朝、腰痛の治療の為に浴槽に浸かりつつ実感したことがあります。以前はそれほど意識していなかった事かもしれません。それは「音楽をしていない時、自分はより悪い人間である、そしてその状態が続いたら潜在的な悪人から更に分かりやすい悪人になるだろう」という事です。

 

少し進む事でパラダイムがシフトする、他人の言葉から自分の言葉へとシフトする、決してイコールで結ぶ事のできない言葉の、経験を伴った不可逆的な変容:「より良い音楽を作る為に、少しでも良い人間になるように精進しなければならない」→「音楽をしていない時、自分はより悪い人間である」。

 

物語ってこういう事かも、人間ってこういう事かも、時間ってこういう事かもしれません。

 

 

2016.1.30

 

「腰痛の具合について」

 

昨年末の12月13日にはじめてのぎっくり腰を経験して以来、徐々に回復はしてましたが、先週金曜日の1月22日迄は、外出時はコルセットと湿布は欠かせない、外出しなくても痛み止めと弛緩剤の飲み薬は欠かせない日々を過ごしていました。整形で処方してもらった薬をすべて飲み終えて、1月23日の朝に同じ整形外科で新たに42日分!の薬を処方された日の午後、あるベテランのギタリストに紹介していただいた整体の先生を藁にもすがる思いで訪れました。

 

整形に比べて少々高くつくのと、科学を超えた、ちょっと不思議な感じの(少林寺拳法の先生なのですが)活法整体という、「気」の流れのような、西洋医学では扱われ無い要素を扱う療法なので(それに厚木は少し遠い)、まぁ、普通に近所の整形に行ってればいいや、と最初は思っていたのです。それが思ったより長引き、LOFTでバックジョイという座る際に使う健康器具まで5000¥出して買ったりしてました。

 

で、23日に活法整体の先生を訪れた帰りですが、整体にコルセットを置き忘れそうになり、帰宅時の運転も、バックジョイが無い方がずっと楽になり、怪我をした野生動物を保護して、治ったら檻から勢い良く飛び出して自然に帰って行く、という動物番組を昔見たのを思い出すような(笑)開放感でした。

 

その後一週間のうちに合計三回通ったのですが、同時に「気」というものにとても敏感にもなりました。自分が勝手に思うに、命そのもの、というか、例えばもし、意のままに心臓を動かしたり止めたり出来たら、とても危険ですよね?特に西洋の文化では「自我」が世界をコントロールする事が一番素晴らしい、とされて来た感があります。最近はそれほど素晴らしく無いという事に気付いて、また変化してるのかもしれませんが。でもそういう命の流れそのもの、を自我を偏重した現代社会の中では、相当無視して、無感覚なふりをしてきたのかもしれません。

 

現時点では、仕事の時でもコルセットはせず、本当にナーヴァスになった時だけ、飲み薬を飲むようにしてます。今まで演奏の仕事で1回、アルバイト先で1回、飲みました。朝起きるとまず入浴するようにして、午前中は未だ身体を動かす時より慎重にしなければならない感じです。

 

15年もやってるアルバイト先でぎっくり腰になったのですが、改めて「気」を意識し始めると、とても自分には合わないのを自覚します。個人的に、特に自分だからそのような意見なのですが、単なる事務所内で、今まであまりにも転倒や怪我が多く、それで退職を余儀なくされた方もいらっしゃいました。多すぎる、と常々思ってはいました。自分も単純に考えると、そろそろ音楽と関係の無い事は辞めるべきなのかもしれません。しかし音楽と非音楽という2極化されたテンションの中から何かをひねり出して行くのも、もしそれが運命ならば奥深いのではないでしょうか?「気」が合わないならそこに自分なりに工夫し、進むべき道の糸口が隠されてるのかもしれません。全くの推論に過ぎませんが。「気が合わない」は辞める理由にはなります。同時に自分は「気」に関する言語をこのようにして学び始めた、とも言える訳です。

 

今日車のオイル交換をいつもお願いしてるメカニックの方と話したら、3ヶ月間コルセット、飲み薬、湿布で、治したそうです。人によって様々で、コルセットをし続けたために、外すとすぐ具合悪くなってしまった彼の知り合いもいるそうです。経験者同士の腰痛談義っていつしか真剣な感じになってしまいます。

 

自分は今、コルセットも湿布も飲み薬も(バックジョイも)要りませんが、完治にはもう暫くかかりそうですし、以前と同じ状態、そして生き方にはもう戻れない様な気がしています。面白い、というと軽いと誤解されてしまいそうですが、以前も日記に書いた様に「ゆっくりと動くのでなければ、動いていないに等しい」という気付きだって、単なる言葉上の物に、たとえ刺青までしても、なりかねない訳です。と、言いますか、考えてみれば「以前と同じ状態」なんて何一つ存在しないのでした、比喩は別ですけど。

 

 

 

2016.1.24

 

「FBで今知ったのですが、」

 

 アメリカで出版される次号のRolling Stone 誌のDavid Bowie に関するカヴァーストーリーを「心臓を貫かれて・Shot In The Heart」の著者 MIkal Gilmore さんがご自身も癌と闘病中なのを押して執筆されているそうです。興味のある方は、日本語版は分かりませんが、探してみては?

 自分自身は今まで音楽雑誌というものは全く読まなかったのですが、「Shot In The Heart 」というGilmoreさんの家族とその呪いに迫った本を過去15年間何度も読むうちに、ローリングストーン誌のライターであるギルモアさんの音楽に関する仕事に急に興味が湧き、先日彼の1997年に出版された「Night Beat - a shadow history of rock&roll」を入手し、とても楽しく興味深く読んでいるところです。

 普通、音楽ライターの方は、音楽に関することを執筆されます、当たり前ですが、でも、ライター自身がどのような生い立ちで、人生の中でポピュラーミュージックがどのように家族に浸透し、歳の離れた兄弟世代間のカルチャー、犯罪、居場所、悲劇、救い、大きくは人生に関わってきたか、を家族の先祖にまで遡ってあぶり出し、さらけ出した「Shot In The Heart」から、ほんの少し垣間見た上で、ボブ・ディラン、ミック・ジャガー、ルー・リード、等の方々にインタビューするのを「Night Beat - a shadow history of rock&roll」で読むのは、いわく言いがたい、というか、とても迫力のある体験です。社会とポピュラー音楽の関わり、と言うときの、重みが凄くあります。

 

 

 

2016.1.14

 

「政治を見てると心の病気になりそうになります」

 

 

政治を見てると心の病気になりそうになります。

組織ぐるみで組織の為の記号人間を大量生産することに取り憑かれていて、そのリーダーも記号人間。有機体の高次細胞の様に、ただ、取り憑かれた様に機能する。最近それがあまりにもマンガの様に見える。

 

あんまりにもそれが危険なので、もっと大きい有機体の作用として「大切な人」が居るのかもしれない、「大切な人」は記号人間の真逆かもしれない。独自の時間の進み方、感受性、視点、運命が有り、誰にも、自分自身にも定義されないし、定義できない事が分かっている。

 

偉そうなこと言うつもりはないけれど、自分はジャズに出会って、音楽に関わりつつ、あるいは友達や家族と接したり、読書を通じて作家の何かに触れたりしつつ、それらすべての事は、一つの共通の声を共有していて、それは「私たちは生きている」という独自の時間の進み方、感受性、目線、運命を伝えているんだと思う。でなきゃとっくの昔に辞めていると思う。

 

どっこいしょ、と椅子に座った瞬間に誇大な組織の思考に丸投げしてしまう様な、マージンの無さ、層の薄さ、そんな社会のストレスを抱えて生きている様に思う。政治家の言動がマンガの様に見えるのは恐ろしいが、マージン不在の感覚の方がもっと切迫している。自分は人間を求めているんだと思います。

 

戦争や悲劇は一瞬で起こるのかもしれない、だけど、「大切な人」は時間そのものを作ってるのだと思うのです。

記号人間に比べて無力に見えるかもしれないけれど、「大切な人」は無力ではないと思います。あなたが意図的に行動すれば、あなたが意図的に行動した世界がもたらされ、あなたが何も意識しなければ意識しないものは変わりようがありません。儀式という古代からある営みはずっと無視され忘れられてきたかのようですが、そんな「無視している気がする」ように考える習慣がついてるだけでしょう(読書したり、コンサートや美術館、ジャムセッションに行ったりするでしょう?悩んで楽器買ったり、真剣に練習だってするでしょう?)。「大切な人」の中に儀式は在るし「大切な人」には自身も含まれます。すべてうまくいく、というのは記号人間の思考かもしれません、自身を含めた「大切な人」の儀式は先の事が全く見えない時に、周囲が何と言おうと、気付きを与えるのかも知れません。

 

でもですね、書いていてだんだん怖くなってきました。なぜなら今、腰痛があって、これまでの経験上、この日記に書いた事が自分の身に実際起こる事が多いんです。それも予想を超えた形で。今は休みたい、そっとしておいて欲しい。先の事が全く見えない時、っていうのはいささか重すぎる。気付きが与えられたとしても。

 

ここにハッキリ書いておきます「(病気とか怪我とか苦しむんじゃなくて)休みたーい!!!!」

 

 

 

2016.1.11

 

「ぎっくり腰をきっかけに時間をさかのぼる」

 

今からひと月まえの12月13日に人生初の「ぎっくり腰」になりました。

現在未だに完治はせず、日々ゆっくりと過ごすようにしています。

完治では無いとは言え、毎日少しずつ回復に向かっているのが、生活をしていて感じられます。

最初の2週間は、こんなにもあっという間に寝たきりに近い状態になってしまう事実に、恐怖と驚きでした。

本当に恐ろしかった。

でも徐々に回復していき、回復の遅いペースに焦燥感を感じ、その焦燥感に危険を感じて反省する事もしばしばです。

 

ほんの2、3日前迄、自覚していなかった事自体に驚いたのですが、実は12/13に向かって、1年以上前から、体からちゃんと腰痛サインが発せられてました。それで、(そういえば)ほぼ毎日腰痛ストレッチしたりしていたのです。

だけど、そんな事では全然無かった:

 

「間違った優先順位」

「焦り」

「不安」

「(以上の諸要素をいっしょくたにした)不安の裏返しのガツガツした努力」

 

そんなストレスの中で、ストレッチだってなんだって乱暴にやってきたんです。本当に色んな要素が、メチャクチャに絡まって水位が上がって来ていたのに、腰痛を腰痛とすら思って無かった。

 

ぎっくり腰は「魔女の一撃」とも言うらしいですが、友人も言ったように、気づかせてくれる「良い魔女」かもしれません。

 

現在はその、ぎっくり腰になる以前の腰痛レベルになったと思います。

ただ、ぎっくり腰を経験した事で、以前は無かった恐怖心が働きます。

先日のNHKスペシャル「腰痛革命」でもやってましたが、慢性化した腰痛の場合、脳内で形成される恐怖のループが、症状は治ってるのに、痛みを感じさせ腰痛を引き起こす事が多いらしいです。

 

それで、先日「あ、これって、ぎっくり腰になる以前の腰痛レベルだ」と気づいて以来12/13が折り返し地点に見えてきました。要するに、長い年月をかけて、12/13までビルドアップしてきた生活を、そこを境に逆行しているように感じるのです。乱暴にサインを無視し続けた日々を、魔女の一撃を境にさかのぼっている、今度は丁寧にやり直す為に。もちろん時計が逆行するわけありませんが、この、さかのぼるという感覚がリアルだし、時間と共に恐怖も減るので嬉しいです、変な話ですが。

 

 

2015.12.25

 

「刺青したい程の言葉」

 

刺青したい程、肝に銘じたい言葉があります。

自分の性格上、刺青した途端に、安心して、忘れてしまいそうです。

そうなっては全く言葉の意味がなくなってしまい、何よりも、自分のやるべきことをおろそかにしてしまう、

という、最も避けたい事態になってしまいます。

そうなりたくないので、刺青は疎か、手帳に記すことも、座右の銘というステレオタイプな位置付けも、避けてきました。

今ここに記すこともできれば避けたいのですが、「ギリギリ」のところで、どこか目に見える形にしておきたいと思います。完全に自分の為です。自分にしか意味をなさない自分の為に語られた言葉です:

 

" IF YOU ARE NOT MOVING SLOWLY, YOU ARE NOT MOVING AT ALL ."

(ゆっくりとうごくのでなければ、まったくうごいていないにひとしい)

 

刺青したい程の言葉です。

 

 

2015.12.11

 

「日記らしい日記4 - アイスブレーカー」

 

幾つかの手がかりが、思わぬところで、つながりを見せはじめました。

想定外、想定外という素晴らしい事実。

「努力は人を裏切ると心得よ」と水木しげる先生はおっしゃいました。

「儀式は想定外を確認させる」というのが自分なりの、現在の見解です。

当惑と、不快感と、不安、絶望、、現代社会では、超アンポピュラーな、トランプの「ばば」のような感情を伴いつつ、、想定外という素晴らしい事実。

生き延びることができるのであれば、の、話ですが。

 

今日も(自分の)世界のねじを巻くという儀式。

 

もう読み終わりそうな「Shot In The Heart」ー Mikal Gilmore著 の中で、母親のベッシー・ギルモアが、死刑を止めるように嘆願書を政治家に送る場面があり死刑というのは、唯一、防ぐことのできる人殺しなのよの様なことを言うのですが、彼女のキャラクターに、分厚い氷を粉砕して進む、砕氷船の舳先のような、勢い、凄まじさを感じます。

 

 

 

2015.11.27

 

「日記らしい日記3」

 

日々、物語自身のスピードで動いております。

Mikal Gilmore著の「SHOT IN THE HEART」半分まで読みました。

読み終わって、感じた事から次の曲を書くまで、次回のライブラリのライブの日取りは決めない事にしてます。

過去に何度も読み返してるのですが、今回はスピードが早いです。内容も今までよりも深く正確に入ってきます。

すっ、すっ、と、いう感じ。書かれている事が、よりわかる、理解と共感。

そして思うのが、やはり、なんて酷いんだ、という事です。

そして、何故にこんなに読ませるのだろう、という事。

村上春樹さんの翻訳で「心臓を貫かれて」というタイトルで出ています。

興味のある方は是非読んでみて下さい。

 

 

2015.11.17

 

「命の文脈、組織の文脈」

 

頼むから自分の「命」を政治や宗教や組織と同じ文脈で扱わないでほしいと思う。

政治、宗教、その他の組織的営み、に重ね合わせて、納得しないまでも、納得に近づいたと思い込んで、同胞(に見える)人達と慰め合い、、群れをなし、、世界のいたるところで、みんながそれを行って、来たのだとしたら、同じ事の、繰り返し。その都度、歴史の中で、みんなが、昔よりはすこしはマシになってきた。と思ってたら。

昔よりマシ、なんてどんな意味があるんだろう?

これ以上は語らないし、自分は語るべきではないと思う。

ただ、冒頭に書いたような、動きが見えて、ある意味、同質の何か、恐ろしいものを感じたのです。

 

「命」をを政治や宗教や組織と同じ文脈で扱わないでほしいと思います。

 

命の文脈は自分自身を見つめる中にあります。

 

自分自身の命を見つめて、

耐え、

耳を傾けて、

沈黙する事。

 

沈黙は無音ではない。

 

 

 

2015.11.14

 

「日記らしい日記 2 〜 時空に物語が押し寄せる感覚」

 

昨夜はカミさんがフードプロセッサ洗ってて、刃で指をザックリ切りました。

自分も疲れてて、作りたくなかったので、晩ご飯を「キママル食堂」に食べに行きました。

寝る直前にトイレが詰まりました。

今朝、外のトイレの排水溝調べてもらったら、地面の下から笹の根が10cm位生えてきて、それに徐々に紙が絡まっていました。

その直後実家の母から電話があり、すこし面倒な事で相談を受けました。

その他、諸々の事も含め、すこしずつ、全てが、独特の、感覚を持ち始めています:「物語」。

 

この数年、分析的且つ、俯瞰で物事を捉えるような本ばかり、読んできたのですが、時空に滲むように、物語が押し寄せてくるものなのかもしれません。「物語自身のスピード」は物語自身の速度で物語を読む事で、確認し直す、そのような物語の速度、なのだと思います。数日前から「Shot In The Heart / 心臓を貫かれて」Mikal Gilmore : 著 村上春樹 :訳 の登場人物に呼ばれています。変な言い方ですが、自分はこの酷い家族の物語(ノンフィクションですが)の登場人物が、どうやらとても好きなのです。

 

 

 

2015.11.6

 

「日記らしい日記」

 

今日は主に練習しつつ、本能と自我がぶつかり合うのを楽しみました。

そのあと四谷三丁目にジャムセッションの仕事をしに行って、「その現場の近くのスーパーだとミントチョコが100円位安いからお土産用に四箱買ってくる様に」と、奥さんにお使いも頼まれ、丸正スーパーに行きました。チョコ以外のものはそれほど安くはなかったです。

ジャムセッションの仕事はギタリストが多かったですが、一緒に仕事をする平井さんのタイム感が素晴らしく、それだけで世界が広がって自分もどんどん演奏できるので楽しかったです。お客さんもみんないい方だし、初参加のドラムのおじさんが上手でこれも嬉しかったです!だけど平井さんが風邪をひいてたので要注意です。

帰り道運転しながら、奥さんのことを考えつつ、「全てが時間そのものである」(タイム感のことではありません)と思ってたら、横浜新道で落下物を踏みました。車には何の被害も無かったです。落下物は何だかわかりませんが、生き物じゃなくって本当に良かった。

 

 

 

2015.11.5

 

「ウミガメの赤ちゃん」

 

何だろう、この焦り、

「皆が当然のように焦っている!」

この街ではもう、焦りは焦りでなく、空回りは空回りですらない。

努力と勤勉

最短距離で最大の効果を、

目の色を変えた人たち、それが普通。

焦りに気づかないまま、

もっとも効率の良い何かを求めて

素晴らしい自己像を思い描きつつ。

 

焦らないように焦ってしまう。

スーパーで買った額縁がトイレに掛けてあって、

「ゆっくり、のんびり、あせらず、あわてず」

とウミガメの赤ちゃんが微笑んでいる絵に書いてある。

この数年、毎日見てきた、たしか2300¥の安額縁が、

昨日急に語りかけてきた。

 

(だけどウミガメの赤ちゃんは天敵だらけなんじゃないだろうか?)

 

焦らないようにするのは、もうそれ自体が戦いの様。

だけど知恵がないわけではない。

 

 

 

 

 

 

2015.10.31

 

「10/31夢:」

 

自分のバンド「ライブラリ」で演奏している。

「お客様は神様です」と思う。

実際に神が客で来ている。

 

 

 

 

 

2015.10.22

 

「おぼろげな記憶が蘇る事について」

 

 

教えられた通りに杭を打ち、分厚い頑丈な板を打ち付け、強い防壁を作った。

予測された何かが怒涛のように押し寄せ、引き攣った防壁は音を立て、大きく揺れた。

予想外の恐怖に声を出さぬ様、硬直し、食いしばりつつ、以前も、いつもそうだった、

おぼろげな記憶が蘇る。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

「霊によって始めておきながら、今や肉によって完成しようとするのか」- 聖書

「Hate will sing the ending that love started to say」- Elliot Smith

 

 

 

 

 

2015.10.20

 

「きれいはきたない、きたないはきれい、ライブラリ@茶会記 2015.10.19 を終えて」

 

 

沢山のお客様に、私達の音楽を真剣に聴いていただき、本当にありがとうございました。心より御礼申し上げます。

「物語自身のスピードで」生き、昨夜演奏をし、そして今日からはその帰結を生きています、物語自身の速さで。

「きれいはきたない、きたないはきれい」

8月の終わりから、浮上してきた意識です。そして昨夜は呪文のように「きれいはきたない、きたないはきれい」と心の中で、絶えず鳴り響いていました。

物語は、少なくとも生易しくはありません。容赦無いものがあります何故なら、時間は絶対に経過しているからです。

並走している列車の車窓から、お互いを確認し合うように、今日はそうであるもの、の、なんとうつろいやすいことか。

 

列車が動いていること自体に、パニックしないで、想像力をひろげて、物語自身の速さできれいはきたない、そして、きたないはきれい。

 

苦しくて歩けない時、

砂浜を、

少しでも抵抗値の少ない方へと、

吐き気をこらえつつ、

流木を杖に、

歩いていく、

正確に、

いつしか砂の上に、

螺旋が描かれている。

 

https://www.youtube.com/watch?v=ecxDy723CTs

 

 

 

 

2015.9.13

 

 

「とても伝わり難い事だとは思いますがー人生は金魚掬いです」

 

 

深淵なもの、

崇高なもの、

洗練されたもの、

かっこいいもの、

芸術的なもの、

すごいもの、

レベルが高いもの、

etc.

ーーーーーーーー

例えば、以上のようなもの、とそれらの180度真逆にあるようなもの、

が、

ーーーーーーーーー

実は、必ずしもそうではない!!!!!!!!

ーーーーーーーーー

という事を発見しまして、

ーーーーーーーーー

個人的には、世界観が変化してます。

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全然上手に説明できないような事なのですが、無理やりに記すと、やはり訳がわかりません。

人生は金魚掬いです。

 

 

 

 

 

2015.9.2

 

 

「ポップソングの歌詞みたいですけど」

 

みんな何者かになりたがってる。

みんな何者かのつもりでいる。

だけど自分自身になるのは後回し。

ロウエスト/プライオリティ。

 

自分の物語を語りなさい

聞く人がなければ、物語は存在できない。

おしまいまで聞かずに、何かを教えたがる人のなんと多いことか。

おしまいまで聞くのに何年もかかるかもしれないのに。

 

みんな何者かになりたがってる。

みんな何者かのつもりでいる。

だけど自分自身になるのは後回し。

はなしを聞くのも後回し。

 

ロウエスト/プライオリティ。

 

 

 

 

2015.8.13

 

 

「物語と忍耐とライブラリ」

 

文学に限定される事なく、物語として認知・受容される時間の流れ・歩み。

「物語自身のスピード」をキーワードに、ライブラリというバンドで、活動してきた。

今、振り返って、幾つかの問題点を見出せる。

「見出せる」というのは、自分が物語の形でそれら問題点を、認知・受容しできるようになったからだ。

忍耐・気付き、は同じ物、つまり物語。

 

失敗も物語には含まれる、という事実。

解答を求めていた人たちは不本意な肩透かしを食わされてしまう。

すみません。

 

思い切って自分の事を少し話そうと思う。

理由はともあれ、情緒的に希薄な人間関係を「普通」として育った。

子供はそれ以外知らないのだから、友達とのやりとりで、「自然体で無理を」する事が日常になる。

想像力に依存する割合が多く、周囲から見ると、外界との間に、幾分奇妙な、目立つ形の防波堤を築いている様なもの。

でも個人の本能的な想像力だけでは防波堤は10代でとっくに崩壊してたと思う。

運命、と言うべきか、不思議と「物語的に」現れる人々や出来事が、自分を内側から満たし、内圧を調整し、歩ける様にしてくれた。「自然体で無理」をキープさせてくれた、という事だ。

そういえば「僕は普通だ」というのが、死んだ父親の口癖だった。

 

誰でもエンジンを修理しながら飛び続けるプロペラ機みたいなものなのかな?

飛びながら修理をする事は日常で、だんだん気にもしなくなる。

調子を尋ねられると「順風満帆」と答える。

墜落する事は、実は恐ろしすぎてオプションに入っていない。

でも忘れた頃に「バン!」と片方のエンジンが音を立て、赤い警告灯が点滅する。

バランスが維持できなくなり、高度が下がり始める。

もうだめだ、と思っていた。

普通では無い、明らかに「普通」では無い。

プロペラ機。

誰でも墜落する、誰でも飛んでいる。

自分が操縦師だと思っていた。

コックピットから知らない機長がこちらに笑顔で手を振る。

スチュワーデスが熱いコーヒーをくれる。

涙が滲む。

落ちてるのかもしれない、飛んでるのかもしれない。

コーヒを飲むと、思いのほか苦い。

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