kentaro ebiko's web site

図書館系ジャズユニット・ライブラリ Library - a story-driven jazz unit official web site

 

 

2013.5.27

 

「さてさてさてさて」

 

村上春樹の小説「ダンスダンスダンス」の中で、主人公が「さて」と自問すると、頭の中で「さて、さて、さて、さて、」とこだまする場面があるのですが、ちょうどそんな感じです。アルバムの音が完成してみると、(ちなみにメンバーの皆さん、お渡ししたCDRから、大幅な曲順の変更と2曲削除があります)思いの外、レコーディングの時よりも更に「蜘蛛の脱皮状態」(2013.1.13「レコーディングを終えて」参照)を引きずってしまっていて、頭がボワボワしています。しかし、また、半年前よりも、ともすれば過ぎ去ってしまう感情や気分を、ピンで固定する様に、「まった」をかけて、眺め、受け入れ、その背後にあるものを、想像する、事が出来る様になって来ています。例えば怒り、を感じ、雪だるま的に、振り回される代わりに、自分の意識出来ていない部分、が、何かに反応し、この怒りを引き起こしている。それ自体は、自然なことで、恥ずべき事でも、否定するべき事でもない。れっきとした自分自身の一部であり、「怒りつつも眺め、聞き耳をたてる」事で、より、自分自身に近付く事が出来、感じる物がある(解る、ということは決して無いと思います)。微妙なニュアンスですが、ある意味、求めていない感情や、気分が手がかりになる、という部分もあります。勿論、そんな内省が必要ない様な、酷い出来事は、実際に起きますが、それとは別の話です。それとは別に、ちょうど自分の頭が「ボワボワ」している様に、白鯨のイメージが知らず知らずのうちに心に住みついていた様に、羊男に実際会えた様に、一人で運転中急に叫びたくなる様に、自分というジャンクションを、「認識」出来ていようがいまいが、様々な、感情や気分、イメージが通過して行く。それらを恥じたり、否定したりせずに、目を凝らし、聞き耳をたて、そして、語りかける。

 

 

2013.5.24

 

「気付くと」

 

ふと気付くと、読書にぴったりの精神状態になってる。特にメルヴィルの「白鯨」の続きが読みたい。もう一年近く断続的に読んでるんだけど、やはりすごい小説なんだと、改めて感じる。だけど、プルーストの「失われた時を求めて」は確か6〜7巻辺りで止まったまま、もう何年も放ったらかしてある。今のところは続きを読む気にもならない。多分アメリカが好きなんだと思う。誰かが言ってたけど、確かに「白鯨」って不思議な本です。分けわかんないんだけど、魅力があるんです。現代の日本で忙しくしてると、一気に最後まで読む気には中々ならないけど、だからこそ余計にインターバルを置いて、あの、100年前の海の感覚に引き寄せられるんだと思います。明日から気持ち的に、作品も制作に取りかかります。アルバム制作(音のみ)のもたらした昏睡状態から、片足のエイハブ船長とモービー・ディック、打ち寄せる大波に引っ張られて抜け出せる様な気がします。理屈には無い、白鯨の力、そういえばこの本を読むきっかけになった、ジョン・アーヴィングの「ウォーター・メソッド・マン」というグダグダ小説も「白鯨」をとてもシンボリックに引用してたのが、思い出されます。

 

 

2013.5.24

 

 

「どうした」

 

気付くと寅さん映画ばかり観ている。地獄犬が出て来ても、何も言わない(しかもブラック・ラブラドールに似ている!)。あまり、何も感じなくなって来ている。諦めと、無感覚と、怒りと、悲しみ、放浪が楽しみになりつつある。マグノリアのゲイのクイズチャンピオンを思い出す。生きているのに、出口が無い。ガラスケースの中で、肉片が飛び散っている。容器の中で爆発させて、遊んでいる。全ての感情には名前があり、持ち主はそれらを、正確な名前で呼ぶ様に、努力しなければならない。ガラスが至る所に出て来ている、地面から。何でも、遠くに見える、だけど、気付いたのだが、別に、近づきたくはないのかもしれない。まだ知らない物事を、正確な名前で呼ぶ様に、努力をしようと思う。

2013.5.23

 

 

「地獄犬」

 

陳腐な表現とは思いますが、心の中に、二匹の地獄犬がいます。地獄犬は地獄の炎に包まれて、燃えています。目からも、鼻からも、口からも、地獄の炎が出て来ます。それ以外は普通のブラック・ラブラドール・リトリーバーみたいです。彼等が何を意味するのか、なんなのか、全然わかりません。でも、心の中にいます。普通の犬みたいなわけには、いきません。牙を剥くと、心の画面全体が牙になります。そして炎に包まれています。今度、機会をみつけて話しかけてみたいと思います。言葉が出ないかもしれません。居なくなってしまうかもしれません。それはずいぶんと、寂しい事の様に感じます。地獄の犬、陳腐な名前でかわいそう。

 

 

2013.5.18

 

「放浪したい」

 

アルバムの音だけ完成して、じっとしてられなくて、奥さんは、福島に除染に行ってるので、一人で、放浪してきました。天気が素晴しくて、田んぼや畑の近くの家では、三軒も庭先でバーベキューしてました。ジョギングでもスポーツでも何でも無い「放浪」が、一番ぴったりきました。リュック背負って、最近また観た映画INTO THE WILDのクリス・マッカンドレスの事思い出しながら。このまま死ねれば良いや。みたいな気持ちでした。そう言う気持ちがありがたいのです。放浪したら、運動不足も少しは解消します。変な話ですが、別に自殺したい訳では無いのです。でも、身体の事を考えながら、筋肉に意識を向けつつ歩く、のは自分的に放浪の精神に反する気がして、逆に変な気を使いました。花の美しさに、本当にびっくりしたりしました。軟弱な非体育系なので足の裏が痛くなりました。そうだ、これをスポーツとして「放浪クラブ」を作れば良い、と思いましたが、クラブ、という団体行動では、放浪にはなりませんね。歩く時くらい、好き勝手にさせて欲しいものです。散歩、は真面目な規則正しい感じがします。放浪が好き、というのとも一寸違う。クリス・マッカンドレスは病的な放浪家なのでしょう。僕は悲しい程軟弱なので家にいますけど。軟弱で良かったのかもしれません。

 

 

 

2013.5.16

 

「アルバム」

 

明日は昼演奏だから、寝なきゃいけないのに、午前二時までアルバムの音修正していて、一段落したら、今度は通して聴かずにはいられなくなって、聴きながら日記書いてます。書きつつも修正したい部分が見つかるのが辛いところです。焦ってやった作業は全部後で気になりますね。結局納得いかなくて、もっと丁寧にやり直し。だったら最初から辛抱強くやれば良いのに、その時は、ほんのちょっと、簡単な修正で済む、と思っているから、焦ってるとは思っていないのかも。馬鹿みたいにはっきりと、てまひまかけた部分が良くって、自信過剰、且つ焦った部分、は、やり直しになるから面白いです。でもそうやってアルバムがストレスの少ない、聴き易くて、良いものになって行くのはとても嬉しいです。いい加減、明日の為に寝なくてはなりません。

 

 

2013.5.13

 

「思考の限界」

 

 

全て、作品を作る様に、向き合うべきだ、例えば、これからの事。作品に向き合う際、自分に向き合う様に、掘り下げ、僅かな明かりを頼りに、僅かな匂いを嗅ぎ分け、物音に耳を澄まし、まだ見ていない領域に、踏み込む。その先に、どうか人がいます様に。何かが、つながり、保たれる。ささやかに見える、その価値は計り知れない。その事が、自分に、ほんの少しでも多く、わかります様に。ほんの少しでもいいから、自分に、わかって行きます様に。

 

 

2013.5.10

 

「午前4時の愚考」

 

空腹感で目が覚めて、かといって食べると太るので、少しだけお酒を飲みつつ、日記を書いてます。何故かこの時間に考えるのがお金の事です。乱暴に言って、お金ってあらゆる物を限りなく無個性にする力がありますね、そして生きて行く上でなくてはならない物です。短絡的に考えると、あまりに個性的な物は生きて行けない、個性的に「見えるもの」が一番バランスよく社会で機能する、同時にそれは没個性でもある。なーんて言う短絡的な物言いが窮屈です。だから、何?。やっぱり乱暴過ぎて、話になりません。もっともらしい事言ってるようで、愛もなければ、公平でもない、想像力のかけらもないタダの愚痴。だから、何?。なんだか恥ずかしくなって来ました。普通に売られてる音楽聴いたり、読書したりして、感動の涙を流すくせに。グダグダ日記書けば、少しは眠くなるのかと思いきや、更にお腹空いて来るし。

あきらめて寝ます。

 

 

2013.5.4

 

「現実の厳しいところ」

 

 

前回の日記に「客体を、思うのと、書くのでは大違い」と書いて以来、夢をあまり見なくなった気がします。この手の内容って、日記とかに書くと、それだけで影響を受けるのかもしれません。良い事とか悪い事とかでは無いですが。別にネタでは無いので。

最近、肩こり対策として、近所の田んぼまで散歩に行くのですが、そこの電柱に赤のスプレーで「犬の散歩してる人は暇な人」みたいな落書きがあります。考えてみれば、わざわざそれをスプレーで他人に見られない様に落書きするのも、結構時間に余裕がある感じがします。

ライブラリのアルバムのミックスが思ったよりも早く出来そうです。

イメージについてよく考えます。音楽の演奏に於いて、一般的に、技術や理論はとてもまじめで勤勉に追求しますが、客体であり、主体でもある、イメージが大元で弱かったら、掘り下げる術を持たなかったら、そのようなものに自分はあまり興味を抱かないと思います。自分のイメージが強いと言ってるのではありません。ただ、そこに興味の95パーセントはあります。だからと言ってイメージが強い訳では無い、というのが現実の厳しいところです。それにしても「ゴッホとかの画を見て見なさい」って言ってたヘイデン先生は、やはり素晴しい師匠でした。だからと言って自分のイメージが強い訳では無い、というのが現実の厳しいところですが。

 

 

 

2013.4.29

 

 

「ライブラリのライブが6月7日に喫茶茶会記であります」

 

あたかも文学作品を音楽に「翻訳」したかの様な、とライブラリの音楽に感想を下さったのは、現在はメンバーでもある、詩人の三角みづ紀さんです。自分の中にある、表現のスタンスを、わかって下さっている感じがして、コミュニケーションが成立した時の、表現者としては大変嬉しい気持ちになりました。文学作品を基にしたオリジナル音楽を続けて8年になります。最近は文学のみならず、自分の夢日記が素材の曲も増えて来ています。振り返るとどれも「じぶんさがし」なのだな、と思います。自分探し、なんて簡単じゃないか、と思われるかもしれません。これが自分だ、と思う事をやればいいのだ、と。確かにその通りかもしれません。でも、作品で表現をしてみると、昨日と今日で言う事が微妙に違う、のならまだ良いのですが、自分の言った事に対して、それを判断する自分、の方も、大袈裟に言うならば平行移動してシフトして行く様な、心地悪さがありました。当たり前ですが印刷された文字はずっとそのままです。大好きな作家の小説を読んだ時に感じる、感情の動き、それは、前者に比べて、自分を映す鏡として、ずっと手応えのあるものでした。繰り返し描く軌跡が安定しているので、より彫りが深くなります。あたかも、その感情のコースをマッピングする様に書き、音にしています。思い付きですが、文字の断面、の様な感じです。客体を、思うのと、書くのでは大違い、なのです。書いてみて、初めて気付く感情、が原動力なのかもしれません。自分を知る手がかりの様なものです。これは難しい事ではなく、簡単に試せます。手っ取り早いのが夢です。誰でも自分が見た夢を覚えている事はあるでしょう。覚えているだけで「知っている」と大抵の場合は思っています。あの夢では、こうゆうことが起きて、この様な感情を持った、と。でもそれを試しに文章にしてみるのです。場所(どこで)、人(だれが)、行動(何をした)、を中心に経過や感情を順序良く書いてみます。すると「こうだ」と思っていた印象が違ってくるのです。より腑に落ちる部分に気付いたりします。夢を素材にする時は、文章にしてから、音にしています。

今回のライブは前回から4ヶ月経っています。今までのライブに比べて、少しスパンが長いです。意図した訳ではなく、スケジュール調整によるものですが、気付くと、このロングスパンを楽しんでいる自分がいます。ライブ、というよりも、ライブと言う名の作品展、この4ヶ月にエネルギーを注ぎ込んだ作品を展示する、という感覚は、とても自分に合っている様に思います。その展示されるほんの1時間強の瞬間を、皆さんと共有できたら、とても有意義且つ嬉しく思います。

ぜひおこしください!

 

 

 

2013.4.24

 

 

「週刊誌と世間知らず」

 

昨夜は週刊誌を読んでみました。実は今まで殆ど全く読んだことが無いのですが、バイト先にあり、休憩中に何気なく手に取ってみました。世間一般、という感じが詰まった雑誌、という感じがしました。具体的に世間一般、と言う物が何か良く分らないのですが、事象の噂話から成る集合体?いろんな事象について、濃いめの味付けがされた意見が、載っているので、読者は多分、新聞よりも分り易く、楽しく、時間が過ごせるんだろうな、と。同時に事象と自分ではなく、その間に週刊誌が挟まると、何だか自由に表現しづらい、窮屈な感じもします。新聞だって各社傾向があるでしょうが、いちおう、比較的意見を押し付けてこないメディアです。この敷居をまたいで、レーベルを貼りまくる感じが、一寸心の麻薬っぽい?意見を(同意するかどうかは何故か別問題?)代弁してくれる効率のよさがあり、ある感覚が麻痺する?、、、何だかよくわからないけど、すごいな、と。

それに比べて、文学作品や音楽、アート、自然、人間、に触れたときの心の反応の、不器用で、無防備で、恥ずかしくって、説明がつかない、間違いも正解も無い、感じって、社会的な効率は最悪に悪いけど、これもまた、別の意味で、何だかすごいです。

ある意味、週刊誌は共有前提で、後者はもっと個人的な部分を喚起するのかな?

そして、ここまで書いておいて白状すると、そんなに一生懸命読んだわけではないので、その分、大袈裟に反応している気もします。いつも週刊誌を読んでるお父さんたちは、こんな事は朝飯前の当たり前で、さほど振り回される事も無く、適宜に暇つぶしとして利用してたのですね。多分。だからどうって事は何も無いのですが。勉強になりました(笑)。

 

 

2013.4.22

 

「特に書く事はありません」

 

が、何となく、アップします。

ー窓を割る、という例えは、とても意味を持って来ています。自分を知り、近づく、のは大変な事ですが、何年もコツコツ手がかりを集め続けて来ました。大切な事でもあります。

ーちょっと飛び道具系のエフェクタ最近ライブで使ってますがシンプルで気に入っています。もっと上手く使える様になりたいです。

ーライブラリのアルバムミックスも徐々に進んでいます。マイペースで創作の延長としてやるのが良いです。

ー社会性について、大切だな、と以前よりも思う様になりました。

ー村上春樹の新作まだ買ってません。

ー友達はありがたいです。

ー整体に行かなくてはならないかもしれませんが、お金がもったいない気もします。でも健康のが高く付くと思うと、迷います。基本的にケチな性格です。

ー気付くともう午前一時です。おやすみなさい。自分も含めて、皆さん、ぐっすり眠れます様に!

 

 

2013.4.17

 

「窓は割られなければならない」

 

 

夜勤が明ける時、大体脳は活性化していて、身体は眠くても、やらなければならない事をすぐにでもやろう、位の、焦りにも似た、気持ちなのですが、昨日は、仮眠後に、「さあ!」と思っても何かが、脳内で

停滞し続け、結局、諦めて、読書と、二時間の散歩に出かけました。そんな散歩の帰り道、様々な事に思いをめぐらしつつ、「やはり、あの窓は、割らなければいけないんだ」と気付きました。2013.3.14の日記で出て来た、ライオンがいる草原を仕切っている、空まで延びている窓です。「割れそうも無い」と書きましたが、それこそ想像力の問題で、何もガシャンと、本当の窓みたいに割る事ではないのです。そんな事言えば、自分は本当の窓をガシャンと割った事なんか、この20年で一度もありません。イメージを具体化して考えがちな、自分の愚かさです。あの窓が想像の産物なら、割るのも想像の産物、であり、何かの例え、それでしか表せない、何か。窓を割る、というと一瞬のイメージがありますが、何年もかかる事もあるわけです。気がついたら消えているのかもしれないし、融けてしまうのかもしれない、きれいさっぱり忘れてしまうかもしれません。いずれもイメージをそのまま具体化してしまいがちです。でもそんな事考えてもどうにもならない。窓は割られなければならず、ナルホド、それは可能なんだ、そして、早くも停滞からは抜け出しそうです。

ちなみに同じ2013.3.14の日記に出て来た「怒り」が閉じ込められている方の窓、は自分の病気みたいなもの、のイメージだと思っています。

 

 

2013.4.15

 

 

「停滞感」

 

停滞感があります。様々な事を休めばいいのでしょう。心置きなく読書をしたり、運動をしたりするのがなかなか出来ません。暮らしの手帖社から出版されている「いつもいいことさがしー細谷亮太著」という本を読んでいます。サブタイトルに「小児科医が見た日本の子どもとおとなたち」とあります。雑誌「暮らしの手帖」の連載コラムを本にまとめた物なのですが、細谷亮太という小児科の先生の言葉の何かが、とても響くのです。内容を理屈で理解し、納得する、のではなく、内容もとても良いのですが、内容を形作る以前のまなざし、の様な物、に、とても感動します。自分も雑誌のコラムを読んで、奥さんが本を買ってたのを思い出し、あれどこだっけ?と借りて読み始めました。まだ最初の方なのですが、物語ではないので、最初の方とか、あまり気にしても意味はありません(笑)。

 

 

 

2013.4.8

 

「夢:4月7日」

 

TVゲームの中にいる。恐ろしい森の中で襲って来る紫色のモンスターを退治するゲーム。一昔前のゲームなので画素数の荒い、プレステ1の頃の様な景色。画素数の荒い世界にいる事が、余計に毒々しく、恐ろしい感じがする。スタート地点に立ち、森を眺めている。自分は特別の武器を持っていて、ピンポンの玉の様な、パーカッションのシェイカーを森の木に向かってシャカシャカ振ると、遠くから、木の中に隠れているモンスター達をまとめて殺す事が出来る。遠くの森の中に、紫色の煙が立ち上り、モンスター達がやられて煙になった事が分る。同時にその付近に、得点を示す数字が表示される「20+20+20+20+20+Bonus Point50!!!」みたいな感じ。だんだん楽しくなって森の中に入って行くが、一向にモンスターが襲ってこない。おかしいと思って、上を見上げると、様々なモンスターが、壊れたオモチャになって、木々の枝に引っかかっている。ゲームの難易度が「楽勝」レベルにセットしてあったのを思い出す。本当はこれよりも、ずっと恐ろしい筈。しかたなく戦うのを諦めて森を進んで行くと、小川が流れる広場に出る。地面から1mの高さで浮いている、扇風機のファンを下向きにした、乗り物に乗った若いお父さん、その乗り物に結んである紐を手に、あたかも犬の散歩の様に、それをゆっくりと引いている、3〜5歳くらいの子供達が数人いる。乗り物はお父さんが趣味で自作したらしく、親子は、ニコニコ笑って楽しそうにしている。

夢から覚めた後、「お父さん」が本当は神様だったんじゃないか、と思った。

 

 

2013.4.7

 

「肩こり」

 

 

肩こりがすごいです。筋トレは時間がかからないので、軽くやってますが、全然運動不足みたいです。有酸素運動は時間がかかりすぎる、と感じてしまう程に毎日頭の中が忙しすぎて、漠然と、人生の中でも、こういうのは、今だけのフェイズみたいな物に違いないと自分に言い聞かせています。なぜそんなに頭の中が忙しいかというと、相変わらず、昔のまま、鬱傾向で、苦しく、ネガティブな人間がベースにあるのですが、それも含めて、違った角度からも、物が見える様になって来た感があり、あまりいろんな事を決めつけなくなって来たからだと思います。同じネガティブでも、決めつけがユルくなって来ている。最近の日記で「想像力」という言葉が頻繁に登場するのも、同じ事と関係があるのかも知れません。その変化は、変化としては悪くないと思いますが、バランスがあまりとれず、肩のコリとなって、意識されてると思います。その様な見方をすれば、違った角度から物なんか見えなかった方が、余程安定していた、とも言えます。おまけに、これから自分がどうなるのか、皆目見当がつきません。でもそれはどの場合も同じでした。あと、以前はこんなことをダラダラ日記に書いたりして、自己嫌悪、恥ずかしさ、情けない感じがした物ですが、最近は、そう感じたとしても、どうでも良くなりました。想像力、と言うものが、こんなに微妙なものだとはね。情けなさが、恐らく格好付けではなく、貴重な物にすら感じています。少しは偽物ではない様です。この微妙な変化は。少しは偽物でありません様に。時間の無駄を恐れるのは貧乏性であります。頭の中が忙しすぎます。でも肩こりは痛いです。明日はかみさんとコストコに行ってバーボンを買います。お酒が久しぶりに飲めるのが楽しみです。

 

 

2013.4.5

 

 

「       」

 

イメージについて、書く事でイメージを破壊してしまうのではないかと、それが少し心配なのですが、前回の日記に引き続き、ORACLE NIGHTを元に制作を始めています。おもえばその小説の中でも小説家が書いている最中に身体ごと消えてなくなっている様な描写があって、ああ、とおもうのですが、今自分が関わっているイメージに含まれ、作り、そして、そうする事で同時に自分自身が作られている、その時程、正しい時間はないとおもうのです。今はまだ制作途中なのですが、するとやり残されている途中の部分が、橙色に変色して、ちぎれたトカゲの尻尾の様に、くねくね、のたうちまわっているのです。そこが僕の「取っ手」。僕がそこを手で攫んで、続きを作るべき場所、で、そうされるのを苦しみながら待っているのです。病気みたいです。心の病気じゃなくて、イメージ上の生き物の病気。あるいは怪我。そうして、作る事で、実は自分も作られて行く。それを他人が見たり聴いたりしてどう思うか、なんて(その時は)どうでもいい。死んでもいいという気になります。想像できる事を想像したからと言って、それは想像力ではないのかも知れません。「なんでも欲しい物をあげる」と神様がいったら「じゃあ、愛とお金と健康と安全、幸せ、世界平和、が欲しい」と、言う発想ではないのかもしれません。くねくね、のたうちまわっているものはなんだろう?

2013.4.1

 

「青いノートブック」

 

二日前にORACLE〜を読み終わって、紙に、図や画、イメージなどを書き連ねています。これ程、現実の日常も含めて、様々な要素が、文学や音楽という枠組みをまたいで、感覚的なフーガの様に(しかも自分自身が渦中にいるので、部分が全体を想像する、という無理が生じる)、現象として(音楽って、時間軸が無理矢理進むので、他の芸術のフォーマットに比べて、現象、に近い、と思ったのですが、小説や詩、だって順番に読む、という時間軸があるし、「バラバラに読んだり、聴いたり、見たり、していいですよ」という括りの作品はそのコンセプト自体が時間軸ですよね、時間には何もかなわないのでしょう、記憶を失ったり、身に覚えの無い記憶を持った場合は、どうなんでしょうか?)飲み込まれる、感がある事はなかなか無いです。ORACLE〜を読み進めるうちに、その様な、読み手の日常まで巻き込む(そこまで作者は考えていないでしょうが)作家の日常生活が物語に巻き込まれる、シンクロニシティーが、要素としては大きな物になっている事に、驚きました。10年前に読んだ時、そこまで驚かなかったのは、それを受け取る力が無かったんだと思います。

振り返ると、「窓」という例えが自分の中で意味を持って来ています。

今タイプしている、パソコンのスクリーンも「窓」

それがネット上で誰かに読まれる画面も「窓」

心の中の、意識のイメージも「窓」

記号を伝える文字自体も「窓」

音も含め、何かを伝える全ての物は「窓」

 

 

 

2013.3.28

 

 

前回の日記で再び現れた大きな窓。しかも今回は絶対に割れそもうもない。割る、のは前回で終わったのだ。その事に妙な納得を覚える。腑に落ちる。先に進んでいる。だけど、ゲームでは全然ない、ので、しかも、自分にはその意味がもう既に何となく分っている。なりたくなくても感情的にならざるを得ない。これは生活の、日常生活の、もたらしたイメージ。そして、やはり、窓、は自分が対決しなくてはならないテーマの様だ。ゲームでは全然なく、日常生活から、呼ばれる、イメージ、一体何年かかるのだろうか?途方に暮れる。パターン化した物は二度と現れない、のかもしれない、と、ふと思う。そう此処に書いておけば、パターン化のパターン化として、この窓が、これから先も現れるのだろうか?窓に愛着を感じてどうする(笑)。対決するのが生きる道なので、同時に、とってもゆっくり進もうと思う。ゆっくりと、対決するのがコツなのだ、というのは、有名な作家の言葉を、自分に合わせて置き換えたもの。

とりあえずP.オースターのORACLE NIGHTを読み返し、音を作らなければならない。それが次のステップ。それと同時進行して、ミックス、練習、バイト、家事、猫の世話、などなど、などなど。

I started to read the book; Oracle Night, right after I uploaded my diary above. And within 5 minutes into the book I came across this sentence which has a large window in it. May be I am reacting too much to it, but I could not help not to share it.

"Life is on the other side of the window, but in here everything looks dead, unreal."

- Oracle Night by Paul Auster

It made me feel that I am being followed by this image saying "No, you can't take all your time. I am right behind you so, you better act faster than you want to".

 

 

2013.3.24

 

 

「二つの窓、の再構築」

 

1. 草原にいる、2〜3頭のライオンが、風に吹かれて佇んでいる。ライオンのこちら側は、分厚いガラスの壁で区切られている。ガラスの壁の左右は地平線まで延び、上は空高く、どこまで続いているのか分らない。鳥も、それを越える事はできない。ふと、ライオンではなく、「自分が」動物園にいる事が分る。何故だろうか?恐らくライオンには動物園という物は存在しないからだろう。動物園は人間の心にしか存在しないから、だろうか?今回のガラスは岩を思いっきり投げつけたぐらいではびくともしなさそうだ。自分はものすごく広い草原のこちら側に、閉じ込められている。

 

2. 長方形のガラスの箱がある。高さ2m、幅2m、長さ3m位の大きさで、中には怒りが詰まっている。怒りはもの凄い勢いでガラスを叩く。人間の形をしているのか?激怒しており、怒りにまかせて、猛スピードで四方八方に体当たりをかまし、拳でガラスを壊そうとする。スピードがあまりに速く、残像の様な物しか見えない。「怒り」のスピードはどんどん早くなり、力もどんどん強くなり、「怒り」の皮膚が怒りに耐えきれずに、破れ、血糊や、白くべったりした脂肪、髪の毛、が箱の内側に付着し始める。それをきっかけにして「怒り」の怒りはさらに、殺人的に増し、叫び声が聞こえ、ガラスの内側はますます汚れて行く。最後には怒りの身体もバラバラに破れ、骨も粉々になり、おさまるどころか、加速度的に比例して怒りそのものはさらに増幅し、残ったエネルギーのみが箱の中を暴れ回り、ドンドン、と汚れた壁を打ち、叩く音が聞こえる。箱自体がガタガタと震えだす。この箱も、もの凄く強いガラスで出来ている。しかし、もしもそれが破れたら、人類は終わりなのか、と思う。怒りは人の形をしている。

 

2013.3.21

 

「飲み込まれてる」

 

現在制作中の音源は、P.オースターの「幽霊たち」を自分なりに、読み解いたエッセンスを音にしている。ライブラリの初期にも、同じ小説から作曲したことがある。それはBlue's Bluesという曲になったが、いわゆるジャズのフォーマットを用いた(と言うより頼った)、今にして思えば、少し安易な、アプローチだったかもしれない。現在制作している物は、10年前の当時よりも少しは進歩したものであって欲しいと願っている。

だが、決して分りやすい音とは言えず、しかも、これで良い、と自分では思っているのが、居心地悪く、結果、何度も聴き返し、、、気付くと、小説の世界に、自分自体が完全に飲み込まれている様な気がして来た。少なくとも、自分が感じた「幽霊たち」の世界が、制作を通じて、現実の我が身に起きている。と、言うと大袈裟だが、という台詞も含め、様々な事が、少しずつ、表層でずれ始め、さっきまで、ぴったり合っていた、線と線が、面と面が、合っている様で合わなくなる。ほんの5ミリメートルだけ、世界がずれている。物がずれ、人がずれ、会話がずれ、思いがずれ、諦めにも似た、だけど、ずれる事で残るもの、ずれるから残るもの、読みにくい物を、一語一語、最後まで、辛抱強くゆっくりと、歪んだ何かに、耐えうる何物か。最後にはそれ自体が物語になる。それが無ければ物語にはならない。だけど、それは小説の話で、そこに自分が飲み込まれている、様に感じる、というのは、自分の自我が、少しだけ以前より強くなって来たからだ、という事にしておこう。

 

 

 

2013.3.18

 

「秘密というか何というか」

 

今まであまり経験した事が無いですが、連続で同じ本を8回読んでいます。この事は自分の中ではちょっと秘密だったのですが、まあ、特に理由もなく、かといって、他人に内容や題名を教えたくもない、と言う感じが、さらに、読み続ける事によって、まあいいや、位に、変化、しても良いのではないか?と言う風に、変わって来てしまうところが、ものすごく、8回も読み返してしまう理由でしょう。でもやはり、今の自分には、非常にパーソナルに感じられる事柄でもあるので、やはり本の名前は秘密であります。一般的な、知的なお勉強、だったらこんな風には絶対ならないので、情報化して、一般化する事は、何としても避けたいのです。少なくとも今は「ああ、あれね、知ってるよ」と言う人には何の落ち度もありませんが、そう言われてしまう場を、自分から提供するのは、愚かな行為です。それというのも、やはり、敬虔なキリスト教徒にとっての聖書のように、少々大袈裟でも、ライフラインとして、自分にとって、そこに書かれている事が、非常に個人的に意味深い物だからです。思えば、偶然というにはあまりにも長い過程を経て、出会った書物でもあります。数人の方が既に秘密を知っています。ので、秘密です(笑)。自分はスパイには全然向いてません。こんな日記の文章、「秘密です」って書いてある旗立てて、目につく場所に飾ってる様なもんじゃないですか。

 

 

 

2013.3.15

 

「さすがにつかれました」

 

昨日はポール・オースターの「幽霊たち」を数年ぶりに読み返して、三角さんとのプロジェクト用に、キーワードをいくつか考えました。しかし、久々に読むオースター。200頁足らずの物語が、全然一筋縄では括れず、分っていたとはいえ、その、思考がグニャッと曲がる物語に、堪能すると同時に、キーワードがなかなか絞れずに、昨夜は睡眠中も「うーん」と唸ってました。自分の中の何かを吸い取られてしまった感じです。オースター面白い。で、今朝、漸く三つのキーワードを書いたのですが、頭の中が抜け殻の様になってしまい。だったら鈍った身体でも動かそう、と久々に遠くまで歩いたら、ただ単に身体が疲れてしまいました。頭も身体もすっかり動けなくなったので、観念して早く寝ます。抵抗してもむだだ!

 

 

2013.3.12

 

「正しい想像力の使い方」

 

正しい想像力の使い方は、

過去形ではなく、

現在形ではなく、

未来形でもない。

 

 

2013.3.7

 

夢3月5日:

 

神奈川県藤沢市大鋸にいる。昔の友達の家の前を歩いている。懐かしくなる。

遊行寺の坂上で、現在、横浜市に住んでいる友達から、メールが来る。が、スマートフォンの「輝きアプリ」でメールが眩しくて見れない。そもそも自分がそのアプリを使って、遊びで、彼に送信したのだ。その返事。

古い深緑色の日本車スポーツカーに乗った男が、左折して入って来るが、曲がり角で止まる。見ると彼も「輝きアプリ」を使っていて、画面が不必要に眩しい。文字を読もうとすると、眩しくて涙が出る程。

自転車で遊行寺の坂を下る。オートバイの人に道をゆずったり、ゆずられたり。

いびつな45階建ての実家にいる。自分の新しい部屋は、とってつけた様な、5階の小さな、一段高くなっている部屋。少し下がった部屋には母がいる。自分の部屋には楽器がある。

床上には、録音機材メーカーの、Drawmer製の厚さ5センチほどの大きな箱がある。何の機材かと、良く見るとグランドピアノの形をしたエレピで、小さい鍵盤が付いている。金属製の箱の上部に高音域と低音域別々にボルトが付いていて、どちらか一つが、完全にゼロになっていて、バランスが狂うのではないか?と心配するが、「この機材はこのセッティングで鳴らすのが昔から一般的に良い」と誰かが言う。

 

 

 

2013.3.2

 

 

 

「影と身体」

昨夜、寝る前にうっかり飲み過ぎてしまった。コストコのコスパの優れたウイスキーを、いつもと同じ量グラスに注ぐ筈が、本当にうっかり手が滑って、あと部屋が暗くて良く見えずに、いつもの3倍、注いでしまった。それは2杯めだったのでボトルに戻すのも気が引けて、疲れていたし、えいっ!とほぼ一気に飲んだのが午前1時過ぎ頃。なげやりな感じの音楽を聴きつつ、本を読んでたら、急に酔いが回って、それどころでは無くなってきて、気付くと、昼間ミックス作業でずっと聴いていた声が、左右ステレオで別々にBPM60で正確に聞こえて来る。聴いていた全然別のCDはとっくに終わっているのに、幻聴みたいに、脳内で勝手にミックスが続いている。もちろんヘッドフォンなんかしていない。以前、運転免許更新の際、係の人が、「睡眠時よりも覚醒時の方が、6倍の早さでアルコールを分解する」と言っていたのを思い出し、「寝るわけにはいかない」と思う。歩く事もできないので、一人椅子に座ったまま、左右ステレオで別々に聞こえる幻聴を無視しつつ、時計をみると、もうすぐ2時。身体がものすごく震えたり、歯がガチガチいったり、指先が真っ青になったり、気持ち悪くなったり、意識が朦朧としたり、寝室でスヤスヤ寝てる奥さんが非常に羨ましくても、とにかく立ち上がれない。トイレにも行けない。

ふと先日、自分自身の輪郭を失う、夢を見た事を、思い出した。その夢に欠けている物は何か?当然夢なので、肉体である。悪寒に歯をガチガチさせながら、その夢について、思い出し、現実で肉体を伴いつつ、輪郭を失うと言う事が、どうゆうことなのか?身体から何か言われてる様な気がした。「思い知れ」みたいな。そして不思議な事に、そこには一寸した快感の様な物もあり「アル中」ってこうゆうことなのか?と想像したりした。しかし、何だってまた、うっかり飲み過ぎたりしたんだろう?以前これ程酔ったのは数年前だったと思う。その時はただもうアホらしくて、「もう酒なんか飲むものか」と思っただけだったけど。

結局3時過ぎに少し楽になったので、トイレで少し吐いて、歯を磨いて寝ました。バカみたい。てか、バカみたい。

 

2013.2.26

 

 

「夢二つ」

 

 

夢:2月25日

 

前輪の車軸の無いオートバイを運転している。前輪の車軸が無いので不安定な事甚だしい。危ないので、バイク屋に乗って行くが、誰もおらず(居たかもしれないが、記憶に無い)結局車軸の無いまま、バイクに乗って出て来る。

自宅の居間に居る。窓が開いて飼っている猫達が外に出てしまう。猫達は順番に1mくらい外に出て、すぐに戻って来る。外から猫をみな家に入れ、窓を閉めようと、ガラス越しに家に中を見ると、知らない猫が2匹増えている。

ハムがあるので、なかなかありそうで無い、厚切りのハムカツを作る。さぞかし美味いのではないかと思う。

 

夢:2月26日

高校時代の男の友人が夜の道を歩いている。女性の声で「いい人なのに何故上手くいかないのかしら?」と聞こえる。

どこかの大きなバーに居る。カウンターが20mもある。店には知り合いが、常連客として来ていて、カウンターの中に入って、カルアミルクの様な物を自分で作って飲んでいるが、自分はウイスキーを座って飲む。

お腹が空く。家(実家?)で出た食事が気に入らないので、外を歩きながら食事をする。夜道を歩きながら、上り坂のコンクリートの上を、レンゲですくうと、地面がトマトリゾットになっていて「汚い」と思いつつも食べてしまう。次は、どこからともなくトンカツが出て来るが、これも歩きながら食べる。トンカツは火が入りすぎていて、少々固い。住宅地の高級そうな家からは、心地良さそうな光が漏れている。ふと、気付くと、少し離れた暗がりの中から、人影が出て来る。母親が実は実家からずっと後をつけて来たらしい。今までの食事の一部始終を見られた思いに、恥と、怒りが、こみ上げて、別に大した事では無さげな母親から逃れよう?とし、近所の住宅に聞こえる様に「助けて!」と叫ぶが、夢の中では声にならずに、実際には「ハァーッ!」と叫んで目を覚ました(ちなみに母親は現実の母ではなく、少し小柄で、見た目もどこか違っていた)。

 

 

2013.2.23

 

 

「通過儀礼」

 

 

もう何回も読み直している本があります。本当は他にも好きな本が沢山あり、読みたいのですが、その一冊が、あまりにもインパクトがあり、文字通り読む度に視点が成長するので、読み直すと前回気付かなかった箇所や、読み飛ばしてた箇所に込められている意味やニュアンスが違って来るのです。

道を歩いて行くのと似ていて、進んだ分だけ、先が見える。その繰り返しが、起きるのです。今、連続して7回目を読んでいます。本の名前は伏せておきますが。

先日も読み直していて、この日記にも最近よく書いている、夢に頻繁に出て来た「大きな窓」を割ったり、おそらく、その結果、自我の境界線(窓=敷居=境界線)が崩壊して自失し、気が狂いそうになる夢を見たり、その様な一連の夢を通じて経験している様な事は「通過儀礼」として、未開人の社会の中で、成人になる為に、行われている儀式と、似ている、と感じました。未開社会でなくともキリスト教の洗礼式に象徴される様な「死と再生」のプロセス、との類似性を感じます。

「死と再生」なんて言うとアカデミックですが、「気が狂う夢」の中で、自分が誰だかわからなくなるのは、ものすごく恐かったです。目が覚めずにあのまま自分が熔解してたら、と。そしてそれは「単なる夢」というよりも独特の重みを持つ物でした。

そういえば、小さい子供にとっての「なまはげ」だって、家族で一緒に居て、お父さん、お母さん、おじいちゃん、おばあちゃん、まさに「安心感」のまっただ中に、しかも自分の家か、親戚の家に居て、いきなり「鬼!」が飛び込んでくるんですよね。本当に小さな子供で、何も知らされてなければ、まず混乱し、そしてパニックを体験するでしょう。そして安全の代名詞である大人達は、大人目線で笑うばかり。「どうして守って戦ってくれないの?」と思うかも知れません。ひょっとして「みんなが鬼なんじゃないか?」と見えてるものに対する疑いも抱くかも知れません。一瞬で世界が変わってしまう。

おそらく伝統的な通過儀礼には、そのような「異界」からの帰り道もちゃんと用意されていたのでしょう。生還できるようになっていて、帰って来た時は社会のメンバーとして受け入れられる。

今のこの世界の事は、自分には「特に」わかりません、ので、当てずっぽうですが、通過儀礼という事を当てはめてみると、形骸化していたり、歪んでいたり、戻る地点がおかしかったり、戻って来れなかったり、儀礼でも何でも無く、ただの犯罪だったり、ただの暴力だったり、良くも悪くも、多様化、高速化、商業化、そして政治化、あるいは孤独化、しているのだと思います。

そんななかで、個人的体験として、夢、を通じて、通過儀礼と呼んだ時に、腑に落ちる体験をした、と言っても良いかどうか、わからないのですが、なるほど、以前より、ほんの少しだけ、前に進んで物を見ている様な、というよりも、前に進んだ自分自身を捉えている感じがします。

 

 

2013.2.16

 

「例えば普通」

 

 

小津安二郎の「麦秋」というdvdを380円で購入して以来、ほぼ二日に一回は食事の時などに観ています。

2013年の今となっては終戦まだ間もない頃の日常など知る由もなく、それがこの様な映画を観ると、何となく伝わって来て、そのあまりの違いに、タイムマシン的な楽しみ方もしています。例えば、自分の両親がどんな時代の価値観の中で、生活していたか、おぼろげに想像できます。

もう、何十回と観ているこの映画を先日も観ていて、はたと気付いた事があります。

この映画の登場人物が、あたかも全体で一人、と言っても大袈裟ではない様な、自我を「共有」していて、全てが「それ」を軸に回っているのです。

原節子がいて、笠智衆がいて、杉村春子、淡島千景、いつものおばさん、その他名前忘れちゃった俳優の方々、子役、がいて、だけどいわゆる「個人」よりも、みんなで共有する日本的集合的自我、の様な物、が本当の主役なんですよね。みんなで人格を共有するのって、こんなに暖かい、個人の輪郭がぼやけて滲んでるのってこんなに安心、そして美しい。

実際はかなり危険もあるんです。本当に良いかどうか誰もわからない縁談を「なんとなく良いんですよ」と最初から決めてかかっていたり。だけど、当時は(少なくともこの映画の中では)当事者(原節子)と同じ位、家族のみんなが納得する事に意味があったんですね。だからって本当は先の事なんか誰もわからないんですが、今と違って、みんなが「もっと当事者と一心同体」だったみたいです。

そしてそんな風に「みんな」があることが幸せであり、有り難い事だったみたいです。そんなじわーっと来る様な、何とも言えない暖かみが、やはり観てる自分にも、魅力的で、ついつい、ごはんのお供に、観てしまいます。

それがこの映画を観て自分が想像する「当時の普通」です。でもそれはやはり、映画の中の、昔の、失われた「普通」だと思います。今、自分が求め、感じる、そして得難い、「普通」とは大分違います。それは何よりも、孤独で、(くどいけど)得難く、そして、中々通じない。ひょっとしてそんなのは「普通」でもなんでもないんじゃないか?なので、孤独なんか全然好きじゃないのに孤独になってしまうのかもしれません。だけど「普通」っていう言葉のもたらす、正直で、リラックスした感じが好きだし、大事だと思うので、それを求めて行きたいと思う次第であります。

てか、そもそも、求める、なんてあんまり普通じゃないのかも知れませんね(笑)。

 

 

 

2013.2.14

 

 

「大きな窓2」

 

 

自分が見る悪夢の中で、一番不快で、やっかいなのが「気が狂う夢」だろう。今までも大体2〜3年に一回位の割合で見て来た様に思う。数年前は、パニックで目が覚めた後も、頭がグルングルン回って、どうしようもないので、朝5時に車に乗って駅周辺をグルグル運転して気持ちを落ち着かせたりした。

「気が狂う夢」の詳細はまちまちだし、昔の夢はもう思い出せないが、共通しているのは夢を見ている主体=自己の輪郭がぼやけ、わからなくなる、事だと思う。覚醒時には身体が、世界が、他人が、自分を自分に繋ぎ止めてくれる。だけど夢の中では、一旦主体の存在に対する疑い、が浮上し始め、加速の兆しを見せると、それを抑制する要素が見いだせず、その事自体がパニックを引き起こすきっかけになる。

どういうわけか、最近、その様な夢の頻度が増えて来た。つい先日も似た様な夢を見た。自分は小川の横にある露天風呂に入っているのだが、世界は既に崩壊していて、やはり同じ様に自分は気が狂いそうになる。形の上では露天風呂に入っていても、それは自己という輪郭=世界に含まれており、世界が既に崩壊しているという事実は、主体の輪郭がわからなくなっている、という事らしい。

このタイプの夢が増えて来ている事について、何となく思い当たる事がある。

1月5日の日記「大きな窓」の中で「今度夢の中で「大きな窓」が出てきたら自分も岩を投げつけて割ろうと思っている」と意思表示をした。だけどそれは、夢に関する話なので、実際にそれを夢の中で実行しなくとも、そのように意思表示した事で、既にそれを実行した事になっていたのかもしれない。その結果、窓の向こう側とこっち側の区別が無くなってきていて、自分の意識だけが、それに「ついて行けていない」のだとしたら。

それが「気が狂う夢」を形作っている。ちょうど、マッサージ時に抵抗すると余計痛む様に、意識がリラックスしていないので、別の言い方をすると、気が小さいので、パニックしてしまう。だから、起こっている事に抵抗しなければ良いのではないか?そんなに悪い事ではないのかもしれない。窓という敷居を壊したかったのは自分だし、それがどこに向かっているのかはわからないけど。今度、同じ様に夢の中で自分の輪郭がわからなくなりそうになったら、そのまま行けるとこまで行ってみようと思う、やはり、一寸恐いけど(笑)。「本能」という言葉を思い浮かべた。

あとですね、以上の様に書くと一寸大袈裟だけど、外側から見ると、ごく普通に、年齢とか、疲労とか、性格とか、ケミカルバランス、とかいう事なのかもしれません。夢なんか全くのナンセンスという事も出来るでしょう。でも「ストーリー無しに人は生きては行けない」というポール・オースターの言葉が僕は好きで、どんなに散文的であれ、ストーリーの無い夢は無いのです。

 

 

 

2013.2.12

 

「例えば怒り」

 

 

最近、肩と背中と、首のコリが酷く、先日、ある方にマッサージしてもらったら「精神的にも結構溜め込んでるとこう成っちゃうんですよね、重傷ですね」と言われて、「40肩です」と言われるより何か高級感があるので「はい!精神的な物だと思うんです!」と冗談で答えました。

でも最近は、いろいろとやりたい事を頑張らせてもらっているので、それは勿論、将来の不安とか、言い出したらきりがないのかも知れませんが、最近は充実感の方があり、「精神的に溜め込んでる」と言われても「?」な感じなのです。

それでも、身体は痛むし、首も痛くて曲がらないし、で、言われてみると確かに何か溜めている気がするんです。例えば「怒り」。

「怒り」って社会的には一番やり場の無い、そして、事件や犯罪に結びつきやすい、そういう意味では「疎外された感情」だと思いませんか?身体のどうしようもないコリを通じて、遠くに感じるのは、自分の「抑圧された怒り」なのかもしれない、と今日ふと、思いました。

今の僕みたいに、アルバムを作ったり、バンドで活動できたり、表現させてもらったり、とてもやりがいのある、事をさせてもらっていて、だけど、小規模とはいえ、それは他の人達の協力と理解の上に初めて成立する社会性の上に、成り立っている以上、例えば「怒り」のような、難しい感情は、変な言い方ですが「無視」されて来たのかもしれない、と、感じたのです。

間違いなく、自分の中には根源的な怒りがあると思います。自分の作品の中にも、それは正直に出てると思いますし、自分が好きな作品も、おこがましいですが、怒りといった物が、全体のバランスの中に説得力を持って含まれていると思います。それは、深みであり、偽善の反対にあるもの、どうしようもない人間らしさ、として、大切に感じている、隠し味、エッセンス、のようなもの、間違えると危険だけど、故に、現実的な物、の一つ。

と、思っていたのが、ちょっとアイロニカルな状況、と呼ぶにはスケール小さ過ぎる(笑)、にはまっていたのかも知れません。不自由さ、の様な物でしょうか。

でもですね、自分の「分」を超えているのは、承知なのですが、ラジオでニュース聞いてると、この「社会的に疎外された感情=怒り」を「貴様〜!」と言って他人に押し付けて、集団化して、一旦始まると後戻りが中々出来ない様な「流れ」を形作りそうな、状況、に事欠かない昨今になっていたり、子供に教育現場でぶつけていたり、ちょっと「怒り」というテーマを正当に見直しても良いのではないかと思います。

アメリカに住んでいた時は、未だに、れっきとした人種差別や、憎悪犯罪がありました。そのいくつかは、自分自身の「怒り」にあまりも無頓着で、無意識な態度の産物なのかも知れません。

「怒り」についての居場所があまりにもないがしろにされすぎてる様な気がするのです。あまりにも若者の歌が「ありがとう」を連発する事の反対にある事かも知れません。「怒り」がイロモノ扱い、と言うか。人間にはまだまだ不自由というか。

「分」を超えたついでですが、以前1月18日の日記に、

ジョン・アーヴィングの小説「ガープの世界」に、「最も難しい行為は「我慢のならない事を我慢する事」だ」と書いてあったと思う。

と書きましたが、もう少し説明すると、

「最も難しい行為は、始まってしまった負の連鎖が、第二段階に進む前に、我慢する事だ」

というニュアンスがあると、自分は読み取っています。

9.11の後に、報復しない、という難しさを語っていると思います。

 

 

 

2013.2.8

 

 

「寺尾聡×お爺さん=宇野重吉」

 

先日、詩人の三角さんに黒澤明監督の「夢」のdvdを貸して頂きました。「夢」の公開当時僕はアメリカに留学していて、地元の映画館で観た記憶があります。その後、数回、いろんな場所で観て来ました。311の後は、嫌でも思い出す原発のエピソード。しかし映画そのものはかなり忘れていて、昨夜、自宅でゆっくり観たら、冒頭から涙腺が緩んでしまい、奥さんが席を立った隙に、涙の処理をしたりしてごまかしました。

昔観たときよりも楽しくて、何故か、ずっと心の中に「巨匠」の二文字が浮かんでました。別に皮肉ではなく、やはり「巨匠」って言われる人って「巨匠なんだな〜」とそこでも感動しました。前日の日記の中身と重複しますが、「巨匠」って人間社会からも保護されるべく、保護されて来た、大切な存在、だから、あんな事も説得力を持って表現できるし、ゆるされるし、求められる、のかもしれません。

昔観た時からやはり、自分は最初の二つのエピソードが好きです、「狐の嫁入り」と「桃の節句」。それと一番最後の「水車小屋の村」のお爺さん、記憶の中ではずっと宇野重吉さんだったのに、観たら笠智衆さんではないですか、きっと長年の記憶の中で、寺尾聡×お爺さん=宇野重吉、という計算が行われていたと思われます。家は二日に一遍は小津安二郎の「麦秋」を観ているので、思わず「笠さん!」と嬉しくなってしまいました。

それにしても「原発」のエピソードは311以降の現実が近すぎて、あまりにも痛々しかったです。特に子供二人を連れて逃げまどうお母さん。有害物質をジャケットで必死に振り払おうとする寺尾聡。

 

 

 

2013.2.8

 

 

「天文学的な数の要素」

 

先日、尊敬する大先輩ギタリストと現場をご一緒させて頂く、嬉しい機会に恵まれた。自分もこの年齢になるまで音楽を続けさせてもらって、この方の様な素晴しい演奏に至るまでの、才能や努力、運命や犠牲、等に思いを馳せる事ぐらいは出来る様になってきた。

演奏の合間に楽屋で楽しく話していて、僕の師匠のチャーリー・ヘイデンの話題になった。その方の「もし彼が今の日本にいたら、プロに成れていたと思う?」という質問に、自分は「そうですね、ひょっとしたら難しかったかもしれませんね」と答えた。おそらく10年前ならその質問に自分は傷付き、腹を立てていたと思う。

でも今は物の見方が違う。僕の師匠の根源的な天才(と言って差し支えないと思う)は僕にとって疑い様のない事実だが、それは、本当に様々な要素(ある意味「偶然」も含まれる要素)によって「保護」されて来たのだと思う。要素の大まかな物は、場所、時代、運命、の様な物だろう。それら天文学的な数の要素によって、師匠はジャズという大木の複雑につながった根っ子の一部にしっかりと組み込まれている。そして同時に、それらの要素はチャーリー・ヘイデンという一人の人格として、奇跡として、生活し、日々呼吸している。地球の裏側で。

だから、比較自体が成立しないが、もし、師匠が今の日本にいたら?プロ云々どころか、それ以前に、生活全てについて行けないんじゃないだろうか?少なくとも今の師匠の様には成っていないと思う。故に、かけがいの無い、本当に大切な存在なのだ。

先日の話に戻ってしまうが、この世界で、如何に「普通」の自己という物を求め、生きて行くか?と言う事が、自分には大切な事に思える。

 

 

2013.2.6

 

 

「ライブラリ@茶会記を終えて」ー「普通」にやって、何かが伝わってくれるのって、一番楽しい。

 

「普通にやる」ということが何にも増して大切だと思うのです。エイドリアン・ブリューというギタリストの曲に"a simple life is complicated”(平凡な人生は複雑だ)という他愛も無い歌詞がありますが、「普通」は見方によっては、本人にとってすら、全然普通に見えない形だったり、あるいは、あまりにも予定調和に普通過ぎて、逆に驚いたり(笑)、します。でも、どの場合でも、「普通」というフィルターを経過する事によって、自分はそれに、発信、表現、しても良い、という許可を与えています。

「発信」の許可と言っても音を出すばかりでは無く、聴く、という事も含まれています。勿論アンサンブル内の話ですが。例えば昨夜、一番最後に演奏したstar eyesというオリジナル曲のインプロは、自分の目論見とはかなり違った展開をしました。

細部に渡る事は避けますが、例えば、(あくまでも例えです)自分がロックの影響を受けているとしても、「ロックとして」演奏されてしまうのはとても困る、と言った様な、崩壊、を内心、密かに予感しました。

でも、アンサンブルの一員として、そこで起きている流れに耳を傾ける、丁度他人の話を「おしまいまで」聴く、様に。すると、まず耳が、すうっと、「普通」の世界に連れ戻してくれます。その覚醒の中で、自分が同曲に、先日、別の現場でデュオ演奏した際の展開の仕方、さらにそれを発展させる、という事を、無意識に期待していた、事に、思い当たります。

理屈から言っても、他の3人のメンバーは居なかった訳だし、場所も、リスナーも違うし、そのこだわりの非現実性に気付く、という事は「普通」というフィルターを経過した事になるのです。

「あー、みんな、普通にやってくれてるんだなぁ」。

その他にも、昨日は曲間に、沢山しゃべりました。曲の解説が多かったと思いますが、思うに「普通」という形でのコミュニケーションを大切にしたかったんだと思います。面白い事言っても、つまらない事言っても「普通」に感じられる何か、が欲しかったんだと思います。

終わってから数人のリスナーの方に「本当に楽しかった」と言ってもらえました。そうゆう形で、言葉のやりとりが在っても無くても、音楽や詩を通じて、「普通」にやって、何かが伝わってくれる(一体何が伝わってるんだろう?)のって、一番楽しい事なんだ、と思いました!

自分の声を見つけつつあるのだと思います。

やはり、メンバーの橋爪さん、飯尾さん、井谷君、三角さん、リスナーの皆さん、会場のスタッフの方、に感謝しない訳にはいかないです。

本当にありがとうございました。

そして、僕は昨夜は、全然気付いてませんでしたが「レコーディングも終わって更にまとまった」という井谷君の意見、振り返ってみると確かにそうなんですね。

他人の話にはいろんなことが隠されています。

演奏後コーヒー飲みながらから橋爪さんに聞いた「盆栽の話」もとても面白かった!

 

 

2013.2.1

 

 

「問題無くして作品は無い?」

 

「決して自分の思い通りにはならない、内面から湧き上がる何か」が無いと、作品にはならない。とは、ある歴史上の有名な心理学者が語った言葉ですが、そこまで大袈裟ではないにしても、先日録音した自分のアルバムのミックス作業をしていると、「まさに」な感があります。

いつも、それはまず、「問題」の形で現れます。「う〜ん」これはヤバい。という部分で始まり、ほとんどの場合(何故か)問題発見と同時に「こうしたら」という解決策がひらめきます。そして大抵、解決策には「+α」がくっ付いて来ます。それが上手く行く時もあるし、問題が更にややこしくなって全然駄目な時もあります。

先日吉祥寺で映画監督ウッディ・アレンに関するとても楽しいドキュメンタリー映画を観ました。最初のアイデアを紙に「書く」のはとても簡単だ。と言っていたのが印象的でした。問題はそれを「映画」という作品に仕上げて行くプロセスなのだそうです。「思い通り」にならない、のだそうです。

「数打てば」当たる、方式を採用している。と、監督が語るのを「いいなぁ」と羨ましく思いました(笑)。もちろん映画は「マンハッタン」等の代表作中心に綴られてますが、自他共に認める「駄作」の存在と、恥ずかしさをそのまま語るドキュメンタリーに心地よさを覚えました。既に社会的であるという事は何かと羨ましい事です。

それにしても、「問題」「解決策」「+α」の結果として、それまで想像してなかったけど納得する「ポイント」に落ち着く、というプロセスを繰り返していると、「問題無くして作品は無い」という事なのでしょうか?と思えて来ます。

 

 

 

2013.1.30

 

1/30:

 

 

夢の中で、自我が「別の自我」にシフトしようとする。今ある、この自我では無く、それまで無意識下にあった複数ある中の「もう一つの存在」が、今の自分を乗っ取ろうとする。この自分が崩壊し、別の何かに組み入れられそうになり、恐怖で目が覚める。

 

 

2013.1.28

 

 

 

「牛、牛、牛、って深いです」

 

 

昨日は、三角さんとうちの奥さんと、静岡ボタニカ・アートスペースという場所に行ってきました。彫刻家石上和弘さんの個展「ボタニカウ」での演奏に三角さんにデュオで呼んでいただきました。ご自宅が牛舎を改造された建物で、ご実家が牧場、子供の頃から牛を見ているので、牛なら何も見ずに描く事が出来る、という石上さんの、僕個人の感想ですが、哺乳類独特のエネルギーが暖炉の様に空間を満たす、暖かく、心地よく、そして距離感も気持ちよい、会場でした。

 

作品は暖炉の様でしたが、実際の気温は若干低く、ジャケットを着たまま演奏させて頂きました。失礼しました。内容は、石上さんの作品から、三角さんが書いた詩を二編、インプロ、ライブラリで歌って頂いている、僕自身が作詞した曲1曲、三角さんが作詞、を3曲。本当に楽しく演奏させて頂きました!演奏し終わった際、展示されていた作品に、それまで以上に親しみを感じました。

 

その後、ボタニカのカフェスペースで石上さん手作りのヨーグルトを大勢のお客さん達と頂いたのですが、食べたとたん身体が喜ぶのが分る(笑)、非常に美味しい、素晴しい酸味とコク、のあるザラッとした食感のヨーグルトでした。牛、牛、牛、なんだか分らないけど素晴しい!そして僕んちの側は気付くと牛舎でした。牛乳石けん使ってます。

 

うちの奥さんと石上さんの会話を横で聞いていたのですが、近所の牛舎を通じて、様々な牛に関する知識をいつの間にか蓄えていたらしく、二人の会話について行けませんでした。ビニールハウスの不思議な機械で、パタパタ叩いている物は堆肥だったんですね!

 

牛、牛、牛、って深いです。

 

 

 

2013.1.23

 

 

 

寝る前に今日も詩を翻訳しました。気持ちが少し落ち着きます。目に見えて何かが生まれるからかもしれません。しかもそれは既に生まれていたもの。ずるいですね。だんだん分って来たのですが、ブコウスキはキャラが安定しているので、実は安全な感じが魅力なのかも知れませんね。少々キザですが。でもアメリカ人だし、L.A.の人なので許します(笑)。

 

誰がここで生きていたかでは無く ー C.ブコウスキ

 

 

誰がここで死んだか;

そして いつ では無く

どのようにして

       有名な偉大な人物

               では無く

人知れず死んで行った偉大な人物;

       世紀の

          大歴史

では無く

人々の人生。

 

寓話は夢であり、

       嘘ではない、

そして

   真実は変化する

人の

  変化とともに、

        そして真実が揺ぎ無いものに成るとき

  人は

    死

     になる

        そして

そして火そして

洪水

が真実に

  成る。

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